かなわない恋



 かなわない、恋をしている。
 もうずっと、長い間。


 ゆらゆら、と。一定のリズムで、上下に視界が揺れる。
 すうっと涼しげな風が、襟足をくすぐって吹き抜ける。
 月は猫の爪のように細く、おかげで星が良く見えた。
 散歩するには、絶好の良い夜だ。
「あ、流れ星」
 ビロードのように綺麗な夜空を見上げながら、のんびりとそう呟くと、
「……いい御身分だな、おい」
 不機嫌そうな声が、自分のすぐ前から聞こえてきた。
 …正確には、おんぶされてくっついている背中越しに伝わってきた、と言うのが正しい。
「でもそう思わないか?」
 肩に置いていた手で、よしよしと宥めるように叩いてにっこりと笑いかけると、おぶってくれているオラトリオは答えずに深く溜息をついた。軽く揺すって私の身体を背負いなおしながらまた黙々と歩き出す。
 俺は馬か、とか口の中でぶつぶつぼやいている様子からして、やはりご機嫌は斜めらしい。
「あんな電話で人の心臓止めておきながら、暢気に流れ星眺めてるんじゃない」
 また身体越しに聞こえてきたいつもより怖い声を聞き流しながら、私は『あんな電話』の内容を思い出していた。

「足が立たなくて、歩けない」
 着信画面で私だということは分かるだろうし。
 下手にぐたぐだ言い訳するよりも、素直に叱られてしまおうと思っていたので。
 携帯の向こうに、開口一番そう告げのだ。
『……』
 相手は――煙草を買いにコンビニに行く途中だったらしい従兄弟殿は、しばらく無言のままだった。
 呆れているのだ、たぶん。
 そう思いつつ、次にくるだろう叱りの言葉を待って首をすくめたが、予想に反してしばらく相手からの反応はない。電波の調子が悪くて切れてしまったのかと首を傾げた時、漸く低い声が聞こえてきた。
『…どこにいる』
 少し掠れている、表情の読めない声。
「公園。あの、お前の家の、近くの」
 聞いたことのないその声に、何となく言葉を詰まらせながらそう答える。
「階段から、落ちたんだ」
 何となくあの低い声を聞きたくなくて、相手が答える前に急いでそう付け足すと、またしばらく沈黙が訪れて。
『……何やってんだ、お前は』
 今度はいつも通りの、でも少し怒ったような調子の声が聞こえてきた。
 その声に何だか安堵してしまって何の言い訳もできないうちに、
『公園だな?今から、そっち行く』
 すぐ行くからじっとしてろと強く念押しされて、通話はぷつりと切られてしまったのだった。

 その後、本当にすぐにオラトリオが公園に迎えに来て、呆れ果てた顔でこんこんとお説教をされて。
 とりあえず足の手当てをするため、近くにあるオラトリオの家に向かうことになって。
 真夜中ゆえに静まり返った道をおんぶされて連行中という、現在のこの状況に至っているわけなのだが。
「足が立たない、歩けない、なんて言いやがって」
 思い出したせいでまた怒りがぶりかえしたのか、僅かに振り返ったオラトリオの綺麗な紫色の瞳が、さっきのお説教の時のようにじろりと睨んでくる。
「俺はまた、クオータについに襲われて、足腰立たなくされたかと思ったね」
 ああ肝が冷えた、とわざとらしい溜息をついたオラトリオの後頭部を、真っ赤になった私は思いっきりひっぱたいた。「いてぇっ」と声を上げるオラトリオの耳を引っ張りながら、近所迷惑を考慮して精一杯ひそめた声で噛み付くように言い返す。
「そんな訳ないだろう!お酒のせいだっ!」
 …そう。今日は、打ち合せをかねた食事会だったのだ。
 雑誌の表紙というちょっと大きい仕事で、編集のクオータとその雑誌の責任者と、三人で行ったのだが。
 問題はそこでお酒を勧められてしまった事。
 そもそも、飲酒はあまり得意な方ではないのだ。弱いこともわかっているし、そう飲めるクチでもない。だけど仕事上の付き合いもあるし、断って場を白けさせてしまっても居心地が悪くなるだろう。だからカクテルの1・2杯で抑えておいたのだけれども。
 …酔ってないと思っていたら、どうやら酔いは足にきていたらしい。
 公園の入り口で、石段から足を踏み外してこの有様だ。
 ずきずきと鈍く痛みを放つ右足首を夜目に眺めて、私は情けない表情で小さな溜息を吐いた。結構派手に落ちたので、捻ったらしい足首どころか身体もあちこちと痛い。
「奴と酒なんか飲みに行くからだ」
 アルコールにからっきし弱いくせに、と不機嫌が倍になった声にきっぱり言い切られて、図星とはいえ私は頬を膨らませた。
「打ち合わせだっていっただろ。仕方ないじゃないか」
「だったら何で隠してたんだよ。迎えにぐらい行ってやったのに」
 即座返ってきたもっともな台詞に、咄嗟に言い返せずにぐっとつまってから、しぶしぶと隠していた理由を口にする。
「…だって。お前クオータ絡みになると、すごく不機嫌になるから」
 犬猿の仲、水と油。本当になんでここまでというほど、仲が悪いのだ。
 特にオラトリオは、毛嫌いってこんな態度のことをいうんだ、と納得するほどの徹底ぶりで。少し話題にしただけでも刺々しくなってシグナルたちが怯えるため、彼の家では名前すら禁句扱いになっている。
「だから黙っていたのに」
 せっかく人が気遣ってあげてたのに、何で気づいてるんだろう。
 恨めしさと感心が半々になった声で呟くと、オラトリオが得意げに「ふふん」と鼻で笑った。
「お前の隠し事なんか、すぐ分かっちまうんだからな」
 さも当たり前に言われたその言葉に、私は一瞬黙り込んだ。きっかり三歩分の沈黙の後に、目の前の金髪に軽く頭突きをくらわせて言い返す。
「…そんなことない」
「あるって。お前すぐ態度に出るからな」
 私の反論を、オラトリオが笑いを含んだ声でまた一蹴する。それでも私はむきになって否定の言葉を口にした。
「そんなことないってば」
 隠し事は苦手なんて、自分でも良く分かっている。
 ただでさえ、オラトリオは憎らしくなるほど聡いから、隠し通せたことなんか今までない。
 それでも、自分でも信じられないくらい奇跡的に。
 隠し通している事があるのだ。
 たった一つだけ。

 ――かなわない恋をしている。

 目の前のこの従兄弟に、もうずっと。
 好きになったことすらも、いつだったのか分からないほど昔から。
「そうか?じゃ、何を隠せてるのか、言ってみろよ」
 心底訝しそうに確認してくる言葉につられて口を開きかけ、私はすぐに相手の意図に気がついて半眼を閉じた。
「……言うもんか」
「残念、ひっかからなかった」
 むっとした声で答えると、目の前にあるくすんだ金髪が悪ガキの仕草で首をすくめ、抑えた笑い声が聞こえてくる。
「小さい頃はすーぐ誘導されたのに、いつのまにか可愛くなくなったなー」
「お前、私をいくつだと思っているんだ?」
 ――こうやってすぐに人をからかうし、女たらしだし、人のことを末っ子のちび並みに手がかかるとか世間知らずだとか意地悪を言うし。
 ぎゅうぎゅうと金髪を掴んで、抗議の意味を込めてぐしゃぐしゃに乱してやりながら、口には出さずに悪口を並べる。
 ――他人の前ではクールな振りをしているくせに、実は案外馬鹿で子供っぽいし。世渡り上手なのに変なところで不器用だし。
 性格ひねくれているくせして正義感が強くて、家族想いで。
「バカトリオ」
 …本当はすごくすごく、優しい。
 腹が立つほど、好きな人。
「…オラクル?」
 ふいに視界を揺らしていた足が止まる。
 その拍子に、ゆらゆらと霞んで揺れ始めていた視界の熱さが、目尻から零れて頬を伝った。
「どうした?…悪い、からかいすぎたか?」
 さっきまで余裕綽々だったオラトリオの声が、慌てたように少し早口になっている。
 その声が謝り出すより先に、私は制するように首を振った。
「ちがう。ごめん。…違うんだ」
 様子を伺おうと振り返ってくるオラトリオに見られたくなくて、咄嗟に涙の零れる瞳をオラトリオの肩に押し付ける。
「足が、痛くて。涙が出てきちゃって」
 お酒のせいかな、となんとか声に笑いを含ませながら、涙をせき止めたくて目を閉じる。
 足の痛みよりも胸が痛くて涙が出るこれは、かなわない恋。
 世間から見れば異常の一言で片付けられてしまう。あの綺麗な、大好きな暁色の瞳に軽蔑されるかもしれない。
 そんな危険を孕んだ誰にも言えない、「叶わない」恋。
 この聡い従兄弟相手に、この先どれだけ隠し続けていけるだろう。
 繰り返し抱き続けるそんな不安を、涙と一緒に内に閉じ込めて。私は今は独り占めできている背中の温かさを、しがみつくように抱きしめた。



 かなわない恋をしている。
 好きな人だけには、絶対悟られないようにする。
 そんな難しい恋。
 ――でも、それでも。
 それでも、胸を張って、幸せだと。
 言えない苦しさを凌駕して、想うことだけで胸が一杯で泣きたくなる。
 好きだと想うそれだけで、誰にも負けないくらい幸せだと言える。

 そんな。
 どんな辛さも「敵わない」恋をしている。
 …もう、ずっと昔から。