世界図


 そこには白い壁があった。
 褐色の髪と鮮やかな緑の瞳を持つ青年は、企み事特有の楽しそうな笑みを瞳と口元に浮かべた。
 ……証さ。ここにいることの。
 彼は傍らに立つ十年来の相棒と亜麻色の髪の少年にそう言いきる。あくまで明るく、けれどどこかに深さを内包する口調で。
 そして彼は、手にしたペンで一つの文を書きつけた。
 ――オリビエ・ポプラン参上! と。



 最近、イゼルローン要塞の一部フロアの壁のあちこちに落書きが発生しているのは、周知の事実であった。
 書いた人間についても明らかだ。なぜならそれは犯人の署名入りなのだから。
 そして、署名などなくとも犯人を特定できるというのもまた、この要塞における、疑いの余地のない事実なのだった。――いわく、イゼルローンお騒がせ冒険隊である。


「まったく、何ということをしてくれるんだね、君たちは」
 ムライの表情は苦く渋い。
 司令部のデスクを挟んで、彼は目の前のポプランとコーネフ、そしてユリアン少年をじろりと見た。ヤンやフレデリカはいくらか興味深げに状況を見守っている。無論、犯人たちの態勢が悪くなればとりなしを図る腹づもりだ。
「幼稚園児が絵を描いているわけではないんだぞ」
「お言葉を返すようですが、参謀長。書いたバカはポプランであって、小官はただ見ていただけですので」
 ごく淡い金の髪を持つ青年は軽く挙手し、あっさりと返答する。
「……傍観は同罪であるとは考えないのかね」
「そうそう。一人でいい子になっちゃいけないなあ、コーネフさん」
「ポプラン少佐は口を出さない!」
 ぱんっと言葉を投げられて、ポプランは大げさに首をすくめてみせた。『歩く小言』に叱られたからといって、本気で恐れ入ったりは当然していない。ユリアンの方は一応神妙にうつむいていたが、こちらも今更の風情だ。この辺りが、『未来ある少年の健全な育成における悪影響の進行』について良心的な大人が取り沙汰する所以である。
「申し訳ありません。以後気をつけます」
 コーネフは頭を下げた。
 もう少しはぐらかしてもよいが、ポプランが退屈して余計なことを喋り出し、放免のめどがたたなくなってしまわないうちに、さっさと退出するに越したことはない。適当な口答えで切り上げるということを知らないのだ、この同僚は。それに、このバカの為に、ユリアンをいつまでも叱責の場に置くのも可哀相である。
 彼が考えたのはそのようなことだった。
「謝れば何でも済むと思ってもらっても困るんだが」
 殊更に不機嫌そうな顔をし、ムライはもう一度三人を等分に睨んで言い渡した。
「とにかく、書いたものはきちんと消したまえ。いいな」
 形だけは立派な敬礼が三つ、了承の返答をする。
「了解いたしましたぁー」
「では失礼します。大変お騒がせを」
「どうもごめんなさい。あの、ヤン提督、夕飯までには戻りますから」
 ユリアンは出てゆきしな、ヤンに声を向けた。少年の言に、黒髪の司令官は微笑んで頷く。
「ああ、行っておいで」


 ポプランは、自筆の落書きの前で実にもったいなさそうな唸りをあげた。手には布と洗剤を持っている。
「うーん……せっかく書いたんだけどなあ」
「おまえさんが人目につくところにばかり署名して回るからだろう、ポプラン」
「当然じゃないか。このポプランさまの名前だぜ、目立つ場所に書かないでどうするんだよ」
「あのう……」
 自由惑星同盟軍が誇る二大撃墜王の、その令名とは勿論無関係な会話に、遠慮がちに割り込むようにして、ユリアンは口を開いた。
「早く消したほうがいいと思います……けど。ムライ参謀長、あとで見回りにいらっしゃるんじゃないですか?」
 コーネフは悠然と首肯した。そのまま今後の行動をさらりと言ってのける。
「ああ、そうだね、ミンツくん。じゃあ主犯に責任を持って処理してもらおうか。我々が監督ということで」
「あ、待てよコーネフ! そういうことするかあ? 友だちだろ」
「ポプラン、繰り返してやろうか、この前と同じ台詞」
「……ふん」
 クラブの撃墜王のしれっとした言葉に、ポプランは半ば本気でむくれる。また「友だち? 誰が?」と返される愚は犯したくないらしい。
 ユリアンは笑いだして、主犯に申告した。
「大丈夫ですよ、ポプラン少佐。ちゃんとお手伝いしますから」
 ぐるりと辺り全体を見回し、コーネフは作業開始を告げる。
「それでは分担してやることにしよう。……ポプラン、さぼるなよ」


 コーネフは一つの壁の前に立ち、しばらく考え込んでいた。落書きを一つ拭き終わったユリアンは、歩いてきてそれに気付く。
「コーネフ少佐、どうなさったんですか?」
 訊かれた青年は、壁の一部を指さした。そこには最初の犯行跡が残っていた。
「オリビエ・ポプラン参上……これ、一番初めのですね」
 これをここにいる証だと称した時の、緑の瞳の青年の表情を思い出す。どこか遠い何かを見つめるような、それでいて勁い眼差しを。
「消すのは少々忍びない気がしてね」
 コーネフは微笑した。確認を求める調子で、彼は問うた。
「ここは陰になって目立たないし、残しておいてやろうと思うんだが……いいかい」
「そうですね、消し忘れたことにすれば」
 ユリアンはコーネフの、表だっては覗かせないポプランへの配慮の響きを感じ取って、はっきりと頷いた。だからこそ彼らは親友たりえるのだ――と少年は思う。
「おーい、コーネフ、ユリアン!」
 反対の壁側から、呼び声が向けられる。ポプランが手を振っていた。
「二人で何やってるんだよ。おれ一人だけ放っぽって!」
「もう担当は終わったのか、ポプラン。手抜きしてないだろうな」
 言葉を投げて、ポプランの方へ、コーネフとユリアンは歩いていった。
 ひそかな共犯者たちはそっと目線を交わし合う。
「ミンツくん、判っていると思うけど」
「はい」
 一呼吸の間を置いて、悪戯っぽくコーネフは囁いた。
「……ポプランには内緒だよ」



 目印を刻んでおこう。
 広い世界で迷わないように。みんなでここにいたことを忘れないように。


 そしてそこには、いつまでも彼らの存在の証が残されているのだ――。