春影


 パルス国、王都エクバターナ。
 アルスラーンが正式に第一九代国王となって、半年が過ぎていた――。



 王宮の露台に佇み、アルスラーンは春の空気を全身で受けとめていた。
 さして厳しい気候環境というわけではないここ「麗しの」エクバターナでは、この時季、冬は退散し、春の女神の使徒が挨拶文を携えて訪れる。やわらかな光が射し、あちこちで花が咲きほころび始めている、そんな街並を臨むのが、若いというより未だ幼い王は好きだった。
 忙しくも平穏無事な日々の積み重ね。
 きっとそれは永遠のものではなく、完全に解決をみたわけではないいくつかの嵐がその後には待っているのだろうが、さしあたって、暖かい陽射しのなか翼を広げる権利はありそうだ。
 即位までの、あれほどの激動の毎日――それがたかだか半年前の出来事とは、感覚的に信じられない。平和のうちに思う戦乱の日はどこか遠い過去のことのような気がする。しかしアルスラーンの中には確かにあの日々が存在し、それ故に彼は何も知らず安穏を謳歌する国王ではいられなかった。さまざまな衝撃とそこからの再生は現実のものであったのだ。
 暖かな微風がさらりと少年の頭髪を撫でてゆく。
「そういえばもう一年、か」
 ふとアルスラーンは呟いた。
 一人の新しい「仲間」が彼のもとに加わって、一年ほどになる。生真面目で一所懸命なシンドゥラ人の若者が、パルスに凱旋するアルスラーン一行の後を追ってきたのは、先年春先のことだ。
 当時一五歳にも満たなかった頼りない少年に恩義を感じ、祖国を遠く離れてまで仕えてくれている若者に、アルスラーンは素直な感謝の念を抱いていた。
「ジャスワントに……」
 ……何かしてやりたい、と思う。特別な何かではない、ただこの感謝の気持ちを伝えたいだけの。
 しかしそれですら、思うに任せない立場に少年がいることは事実であった。あまねく人々に公平を布かねばならぬ身分上、表立った行動を示すわけにはいかない。アルスラーンには始めからそのつもりはないが、たとえば金品等で報いる、ということになれば、他の一部の者から不満も起これば嫉妬も起ころう。そもそもジャスワント自身が、悪い表現をすれば「金で釣る」ような真似を喜ばない。人の上に立つとは、これでなかなか気苦労の多いものなのだ。
 アルスラーンは小首を傾げて考えた。その素直な想いに最も近い表現法に辿り着いて、ふと彼は微笑した。それは彼に降り注ぐ陽光と同じ、心まで穏やかにしてくれるような優しげな笑顔だった。


 ジャスワントはアルスラーンの居室のすぐ前の通路にいた。
 本人から特に言われない限り、ジャスワントは若き国王の警護から外れることはない。それは、アルスラーンがまだ王太子の地位に在った頃から変わらぬ、日常の一つであった。
 仕えるべき相手ゆく処、常に三歩後ろに付き随う、豹のような俊敏な身のこなしのこの若者は、主君から離れることを殊の外不安がる性癖を持っている。シンドゥラ人を嘲弄して「黒犬」と表現することがあるが、忠誠心だけを取り沙汰するのなら、心を向けられるだけで無上の喜びを感じ、寝ても覚めても主人の傍という彼は、確かに猫より犬に近いのかもしれなかった。
 不意に、空気……気配の動きを察知して、ジャスワントはアルスラーンのいる部屋の入口を見やった。予測どおり、どちらかといえばおとなしそうな容貌の少年が顔を覗かせる。
「――陛下」
 そうジャスワントは呼びかけた。パルスで現在進行形でその呼称を享けることの叶うただ一人の存在に一礼して、彼は玉音を待った。
 アルスラーンはにこりと笑って、尊敬ではちきれそうな様子の実直な若者を見返した。
「ジャスワント、ご苦労様。……少しいいかな?」
「はい!」


「御用は何でございましょう」
 入口奥に掛けられた天幕をくぐって室内に踏み込み、ジャスワントは姿勢を正した。アルスラーンは、相手を自分の至近距離まで招き寄せた。
 未だ成長途中にある視線の高さから、前に立つジャスワントを笑みをたたえたまま仰ぎ見る。
「礼を言おうと思って。ありがとう、ジャスワント……」
「は……?」
「おぬしが私のもとに来てくれて、もう一年になる。未熟で至らぬ私に愛想を尽かしもせず、今まで本当にありがとう」
 一言ずつ選ぶような言葉に、ジャスワントは頬を紅潮させた。浅黒い肌で目立たぬのがある種のご愛敬であろう。
「も、勿体のうございます、陛下! 私など……」
「いや……おぬしがいてくれなかったら、今日まではもっと苦しいものになっていたかもしれない。感謝する」
 他意の感じられぬ、むしろ素朴ともいえる口調は、王族の枠を取り去ったアルスラーンという名前の少年にはふさわしいものであっただろう。
「ジャスワント――」
 痩躯の若者の名を口にし、アルスラーンはその手をすいと取った。そのまま、臣下が君主に忠誠の誓いをするように、敷かれた絨毯に恭しく片膝をつく。
「へっ陛下っ!?」
 瞬間的に慌てふためき、ジャスワントは手を引っ込めかけた。引っ込めなかったのは、失礼にあたるのではという律儀さ故である。
「あ……あの、その、陛下……っ、わた……わた私はっ、その……」
 若者は完璧にうろたえている。いったい自分は何という恐れ多いことをされているのか!
 アルスラーンは気にした様子もなく、語を紡いだ。
「すまないね。……本当は堂々とできれば良いのだけど、どうやら私の場合、人前でやると論議を呼びそうだから」
 当然といえば当然である。逆の状況であったなら、それは誰の目にも自然なものとして映ったであろうが。ほんの少しだけ困った表情を混ぜ込み、けれど微笑って、アルスラーンはひざまずいたままジャスワントを見上げた。
「どうしたらおぬしに報いることができるのか判らないけど、私にはこうするしかできないから……。心から感謝するよ――」


「さすがはアルスラーン陛下でござるな」
 同じ刻、部屋の外の壁に、腕を組んだ二人の男が背を預けていた。
 覗かずとも、断片で一部始終の予測はつく。室内の様子を正確に推測した上で、ダリューンは口を開いた。
「凡庸の者では、とても……。そう思わないか、ナルサス」
「それがあの方のあの方たる所以だ。『王者』らしくはないのかもしれぬが、それが陛下の長所だからな」
 ナルサスが軽く笑って受け答える。
 目下の者に対しても己れの信ずるまま膝を折ることのできる屈託の無さは、貴重なものであろう。そしてそれでいながら、自分の立場をわきまえているところに、アルスラーンという少年を構成する鍵があるのだった。
「それにしても……」
 心安げに、ダリューンは微苦笑した。
「ジャスワントは一体どんな顔をしていることやら」
 実直を絵に描いたようなシンドゥラ人の若者が苦労しているだろう、表情の選択を思いやって、ダリューンとナルサスは自分たちも心が暖かいもので満たされるのを自覚した。彼らの主君は真実尽くし甲斐のある人物であるようだった。


 ジャスワントは自分もひざまずき、両の掌で少年のまだほっそりとした手を包み込んだ。一種の感動が彼の全身を駆け巡っていた。何という素晴らしい主に自分は仕えているのだろう?
 はた目からでもそれと判るほど顔を真っ赤にさせながら、彼は意気込んで決意を口にのぼらせる。
「陛下、陛下、私はそのお言葉だけで充分でございます! 何もいりません! 私ごときをお気遣い下さるなど、身に過ぎたる光栄です!」
「ありがとう……」
 アルスラーンは陽だまりのような笑顔を見せた。気持ちを伝えることには成功したらしい。彼はやわらかく、だが真剣に問うた。
「これからも私を支えてくれるか、ジャスワント」
「は、はい! もちろん!!」
 力一杯ジャスワントは首肯した。二人とも大真面目で懸命なだけに、心底微笑ましい。
「喜んで、これからも仕えさせていただきとう存じます!」
 ―当たり前の春の一日。それが「当たり前」なのは、きっと非常に幸福なことであるのに相違なかった。


 後の世に「解放王」と呼びならわされるアルスラーンの、他者の心の解放をも促す才能の一端を表す、それは小さな挿話である。
 時、パルス歴三二二年三月、アルスラーンの御代はまだその一歩を踏み出したばかりであった。