憶えているのは、色と渾然となった感情だった。
 あの日の、窓枠の形に切り取られた視界一面にひろがるのは、淡い淡い、白と見紛うばかりの桜色。
 侵すべからざる、静寂。瞬間の、永劫。

 それが、己れの征く先を決定してしまったのだ……。

 

 外界は、街路の一本に至るまですっかり葉桜に移り変わっていた。
 初夏、と表現するにはもう何日か必要な、晩春。
 水沢諒は渡された紙片を四つ折りにしておいて、室内からすぐに退出するでもなく、その場でがさがさと弄んでいた。
 簡略に記された幾行かの流れるような文字が、彼のすべきことを告げている。初めてのそれ。
「諒、どうした?」
 メートル単位もない距離で、この世のものではない美貌が、笑みを形づくる。どちらかといえばふわりとした、それでいて鮮やかな。
「どうも、精神的な消化不良を起こしたような顔をしているが」
「………」
「ここにきて、初仕事を前に怖気づいたか?」
 揶揄するようにそう斎伽忍に問われたとき、諒は目を反らすことしかできなかった。
 以前なら、迷わず掴み掛かっていってしたたか壁に叩きつけられただろうが……。
 もう、がむしゃらな反発だけを糧にするのではなくて。それは己の意識が知らぬうちに塗り替えられていたのを知っていたからで。
 明らかに「否」と答えることはできなかったけれど、素直に認めることもできない……そんな曖昧な自分が内にいた。
 でもそれよりも。
 真に恐れたのは……。
「別に……今更、だろ」
 視線を部屋の隅にさまよわせたまま、埒もないことを諒は舌に乗せた。取り戻した言葉を選択しつづけ、ついに探しあぐねて。……敗北、だ。
 一瞬の更に十分の一ほどの間、首を傾げてから、忍は喉の奥でくつくつと笑って、相手の返事を受けとめた。何がおかしいのか、いたく満足気に。
 その様が、諒に過日の幻影を見せる。彼はわずかに目を細めた。
 ……けだるげな静けさの中の、決して壊されてはならない刻。
 空間までもが、その儚すぎる微睡みを妨げぬように優しく沈黙していて。

 こいつは死んじまう……たぶん、手の届くような近さのいつか。もうじき。

 小さな確信がするりと忍び込む。
 もしも彼が望むなら。――神が、ではなく、彼が望むなら。
 ならば……彼の命令は、全て叶えられなければならないのだ。そうできるうちに。
 献身、などという吐き気のする陳腐な語彙とは対極の、しかしすぐ隣り合わせの思い。
 在ったのは、時に透け、時に春の陽を反射して風に舞う、薄紅の『雪』の中に溶け込む、人ならぬ者――。
 だから。
 だからこそ自分は。
 ……増長よりも傲慢よりも激しい、途方もない願いをそこに抱いて。

 まもりたい、なんて。

 ちっぽけな力しか持たない人間が、至高の存在を庇護しようなどと。いつだって腕の中に護られているのは、きっと我らなのに。
 けれど、『彼』は。彼の生は、水面に映しだされる小さな炎よりも揺らめいて見えたから。
 そうだ……本当に怖かったのは、もっと別のもの。
 喪失の恐怖。
 心の中の、桜の花弁の色に染まった聖域。束の間の永遠の……。
 ほんの半瞬目を離すだけで消え失せてしまいそうな――それこそに怯えて。
 ……ゆえに諒はこの場から去り難かったのかもしれなかった。今、この瞬間にも忍が穏やかな空気に溶けてしまいそうで。
 深呼吸とともにゆっくりとまばたきすることで、繰り返される、もろく煌めくガラス細工の時間の夢から醒めて、彼は目の前にいるはずの、人の姿をとった神を窺った。
 相手の視線は、まっすぐに少年を射抜いていた。先刻の笑いの微粒子を含んだままの瞳で。
 忍が変わらずそこに在ることに、わずかな安堵を諒はおぼえる。彼はそっと吐息した。
「……小さな子供みたいだな、おまえは」
「え?」
 突然に――。評の意味を掴み損ねて、諒は発言者を見なおした。
「子供のようだ、と言ったんだよ。聞こえたか?」
 聞こえはしたがよく判らない。判らないが――馬鹿にされているのは疑うべくもない。彼の結論はそこに行き着いた。これが、忍にしてみれば一種の誉め言葉にも似た様相のものであると諒が知るのは、ずっと後になってからのことだ。
 彼が何か言い返そうとするより前に、
「まあ……そんな瑣末事はどうでもいい」
 忍は額にかかった前髪を指先で跳ね上げた。
「ところで、諒」
 その時にはもはや、一瞬前までの、むしろ人なつこいほどの笑みの残滓は消滅していた。
 諒が身構えてしまったのは、経験からだ。
「一体、いつまでここに突っ立っているつもりだ? 既に用は済んだはずだが」
 冷酷な……氷より温度の低い口調。再び嘲弄の響きが一音ごとに組み込まれる。
「……それともやはり怖くなったのか? なら、逃げてみるか? 可能なら、だけれどね」
 こちらの方が、諒の知るいつもの忍だ。却ってその方が対応しやすかった。お膳立てなのか単に挑発しているのか、判然とはしなかったが。
「――誰が!」
 短く、今度は明確に否定して、諒は指示の書かれた紙切れをジーンズのポケットにねじ込んだ。気付いてしまった一番の恐怖を思い切る、その勢いをつくる為に。
「結構。虚勢でも、ないよりましだ」
 頷いて言い放つ忍に背を向け、諒は歩きだした。
「ほざいてろ」
 大丈夫だ……彼はまだ、この世からいなくなったりしないから。
 諒は何度も、呪文のように反復した。
 そうせずにはいられなくて。何故いるのか、なんて、もはやどうでもよくて。
 誰より憎ませることで、強引に力の差でねじ伏せることで、彼はここに自分をとどまらせたのだから。一人で消えてしまうなんて認めない、そんな身勝手を承知の……。
「――諒」
 彼が扉の把手に左手を掛けたところで、忍は餞別代わりと言わんばかりの言葉を投げた。
「健闘を祈る」
「嫌味な奴……」
 嘆息して振り返る視界の先で、忍は静かな空気をまとわせてこちらを見つめていた。いつもの、はじめから何もかも超越した平静さで。
「あ……」

『桜が怖いのか? ――それとも、僕が?』

 ゆったりとした、言葉のつながり。儚さなど存在していなかったように。
「――」
 再現される情景に、立ち尽くしかけて、諒は言葉を見失った。
 駄目、だ……立ち止まってしまったら。
 そうしたら、きっとまた囚われる。あんな……光景を、見せられてしまったら。
 それは確信だった。
 幻のようにたゆたう、侵しがたいひととき。心の内のひとかけらの、神聖な、守られるべき、踏み込むことの許されない……。まるで、生命と引き換えに描かれた絵画のような。

 憶えているのは――。

 ……何秒かの、声以外のものが支配する時の末。
 呪縛されまいと必死に目線を外して、諒は忍のいる部屋を出た。
「行ってくるぜ」
 扉を閉める瞬間、一言だけ残して。
 その返答を、敢えて諒は聴かなかった。
 ――場を歩み去りながら、彼は自己憐憫とも慨嘆ともつかない呟きを洩らした。
「ほんと、天下一の大馬鹿者だよな、俺ってば」
 なにが、もどんなふうに、も顕にせずに。
 外には、深みを増す緑の中、冴子が立っているはずだ。急がねば何をねじ込まれるか判ったものではない。諒は歩調を早めた。

 

 ……蘇るのは、窓辺の、ひどく繊細に調和した彼の人をかき消すように舞い散る桜吹雪。不思議な感情。


 それは、初めて忍の指示で諒が動くことになった日だった。