ウィローがパプワハウスに向かってからしばらくののち。
 ――ぽんっ
 ほの白い薄煙が、地面に叩きつけられ倒れた彼を中心に拡散した……。




LITTLE WIZARD〜BAT COMMUNICATION




 とこしえの楽園が、ここに確かに存在している――。


「キィ……キュイキイ」
 耳元で聞こえる、動物の高い鳴き声。
 ウィローは目を開けた。昇った朝日が眩しい。どうやら自分は気を失ってしまっていたらしい。
「………」
 え……? ちょー待ちゃあ。確かワシ、薬をまた手違ゃあで飲んでまったはずだがや。何で……。
 また、という辺りが我が事ながら哀れを誘う。起き上がり、ウィローは慌ててきょときょとと左右を眺め回した。その至近距離に、可愛らしいコウモリが一匹、ちょこんと座り込んでいた。
 確かに姿は可愛らしいのだが……サイズは、ウィローと同じ……?
 なっ……ななな……何でゃあ? 化けもんきゃあッ?
「キイ♪」
 コウモリは、驚くウィローの腕にしがみつき、そのまま飛び上がった。つられてウィローも宙に引っぱり上げられる。
「キィ! キイキィ!(こら、何しやあす! 寄るでねゃあわ!!)」
 ――えっ!?
 そこで、ウィローは自分の出した声にはっとして状況に気づいた。澄んだ空気の中、彼は宙に浮いていた。――自分でぱたぱたと羽ばたきながら。
 衣服は、とりあえず残っている。問題は自分本体だった。ひょっとして、もしかすると、このコウモリが化け物サイズなのではなくて……。
 改めてウィローは自分自身を見つめた。全身を毛皮に覆われた、おそらくは数十センチしかないのだろう体。背骨から変化した羽根。要するに……。
 やっぱりワシ、コウモリになってまっとるんだぎゃあーッ!
 気分は、有名絵画のムンクの『叫び』である。ウィローは声を上げた。ただしそれは無論日本語にはならなかった。
 元に戻るには……?
 自分がコウモリになってしまったと気づいた瞬間、反射的に、ウィローは中和薬の材料と作り方について頭をめぐらせていた。過去の、変化薬によって中和組成を忘れてしまった記憶がそうさせたのだ。
 ――蛇の舌とカエルの指先とトカゲの心臓と余ったインレタ、それにないろ。
 原材料も、作る手順についても、普段と変わらずするりと出てくる。ウィローは心の中で、感動と安堵の息をついた。
 お……覚えとったぎゃ! 良かったて、忘れてまっとったら二度と元の姿に戻れーせんとこだったなも。
 あとはさっさと材料を揃えて中和薬を作るだけである。形態変化ゆえにタイミングがうまくいかなくていくらか手間取るかもしれないが、できなくはないはずだ。
 早速材料を探そうと、ウィローは近くを見回した。その途端、やけに懐っこいコウモリにぐんっと引き寄せられる。
「キイキィー♪」
 多分ウィローを純然たる自分の仲間だと信じているのだろう。コウモリは嬉しそうに鳴いて、ウィローの腕――前足を取ったまま、森の奥へと飛びはじめた。
「キイ!(ワシはおみゃあの仲間なんかだねゃあ!)」
 おみゃあなんかに付き合っとれーせんのだわ!
 空中でじたばたとあがきながら、ウィローは必死に弁解を試みた。だが、通じないのか、単に聞き流しているのか、彼の手を引くコウモリはそのまま飛び続けている。意外に強い力で、振りほどくこともできなかった。
 何ででゃあ!? なんっでワシがこんな目に遭わなかんのだて!
 こんなはずではなかった。自分はかつての同僚たちに変化薬を飲ませるはずだったのだ。それなのに。
「キイィーッッ!!(だでワシは人間なんだぎゃあぁーッッ!!)」
 パニックに陥ったウィローの悲痛な声が、森の木々の梢をさわさわと動かした。


 離しゃあて! この勘違ゃあコウモリ!
 森の中の幾分ひらけた場所の上空で、ウィローはまだ抵抗していた。
 勘違いも何も、コウモリの姿、コウモリの鳴き声で弁明していて、誤解を受けない方が不思議である。
「キィキィキィ」
 コウモリはウィローにまとわりついて離れようとしない。その時、人の声がそこに向けられた。
「おかえりやす、テヅカくん」
 ――!?
 ウィローはびくりとした。この声……?
 最後に聞いてからもうかなり経っていること、自分の聴覚が姿に合わせて変化していること、その双方を考えに入れても、聞き間違えることの不可能な、それは覚えのある声だったのだ。
「おや、テヅカくん、友達できはったんどすか……よろしおすなァ」
 ウィローは地上を眺め下ろす。テヅカという名前らしいコウモリとウィローを仰いでいる青年が、そこにはいた。
 美形と称してよい顔立ちとどちらかといえば細身でしなやかな体躯を所有する、穏やかな物腰の黒髪の青年。長きに及ぶ島の生活でやや精悍さを増したきらいはあるが、ウィローの記憶にあるままの、彼にとっては誰よりも会いたかった存在だった。
「せやけど見たことあらへんお友達どすな」
 アラシヤマさんっ?
 ウィローは愕然として、アラシヤマを見下ろした。我を忘れ、それゆえにテヅカくんの手をはがすことに成功して、急降下する。
「キィキイー!(アラシヤマさん! ワシ、むっちゃんこ会ゃあたかったがや!)」
「な……何どす?」
 アラシヤマは、目をしばたたかせた。ウィローは必死に訴えかける。どこかで見た光景だった。
 ……もう、二年前にもなる。やはりウィローが自作の魔法薬を間違って服用してしまった――幼児になってしまった時、真っ先に出会い、救いの手を差し伸べてくれたアラシヤマを、彼は心に焼き付けていた。
 そして、その時以来、彼にとって、元の姿に戻れるまでの間ずっと何かにつけ世話をしてくれたアラシヤマは、いっそ親代わりに近いほどの特別な存在となっていたのである。
 あの時助けてくれたように、アラシヤマなら、今度も何とかしてくれるかもしれない――無意識下で、ウィローはそう確信していた。彼は、自分が人間に戻るまできっと保護してくれる、と。
 無論、そんな砂糖菓子のような思考は相手がアラシヤマでなければそもそも起こりえないものだった。ある意味で非常にプライドの高いウィローが、己の失敗を自ら暴露するなど、滅多にあることではないのだ。それは彼に限らず、ガンマ団に籍を置いた者全てに共通する部分であるのだが……。
「キィキュイッッ!(ワシだぎゃワシだぎゃ! 名古屋ウィローだぎゃあーっ!!)」
 アラシヤマは不得要領そうに首を捻ってウィローを見返した。無理のないことではある。誰が、いきなりコウモリになって現れた者をかつての僚友だと看破できるだろうか。
「なんやえろうお喋りさんなお友達はんどすなぁ……」
「キィッ!(違うがや!)」
 アラシヤマは、自分に鼻先をすりつけんばかりにしているウィローの脇の下に手をかけて抱いた。
「あれ? そういえばあんさん、どことのう名古屋ウィローはんに似てはりますな。帽子といい……」
 懐かしそうに、アラシヤマはウィローを眺めやる。
 ほうだ! ワシだて!
 ここぞとばかりに、しきりにウィローは頷いた。だがアラシヤマの勘違いはまだ続いていた。
「あぁ、名古屋ウィローはんてゆうても判りまへんわな。そのお人は、昔わてがおったところの知り合いなんどすえ。他人の空似ゆうんはあるもんなんどすな。ウィローはん、元気にしてはるやろか……もうわてのことなんか忘れて過ごしてはるかもしれへんなァ……」
 何たーけらしいことこいとりゃあす! ワシがその本人だがね!
 ウィローはアラシヤマを睨みつけた。しかし相手は根本的に気づいていない。
「そうや、あんさん、わてらと連れもって朝ごはんにしまへんか? 友達と仲良う食べたほうがおいしゅうおますえ。なあ、テヅカくん」
「キィ」
 おみゃあさん、なんでそうにっすいんだて!
 ウィローの怒りの水位が見る間に上昇していた。正体が判らないのは当然なのだが、こうまですっとぼけられると腹が立つ……不条理極まりない腹立ちだった。
 アラシヤマの肩越しに、ヤシの実の入った籠が見える。アラシヤマに力一杯ぶつけるつもりで、ウィローは軽く指先を動かした。ますます覚えのあるシチュエイションであった。すぐに破壊的行動に及ぼうとする性癖は健在だ。
 もっとも、自分がウィローだと理解させるには、魔法を使ってみせるのが一番手っ取り早い。その意味も一応存在していた。ただ単に腹が立った部分が95パーセントほどを占めていただけである。
 目標物を見つめる。ヤシの実はアラシヤマめがけて空中を飛ぶ――はず、だった。
 ……あれ?
 一瞬信じられないものでも見たように、ウィローは首を傾げた。籠の中のヤシの実は、ぴくりとも動かなかったのだ。
 どうやら術のタイミングを間違えてしまったのらしい。通常あり得ることではないのだが、そう考えるしかなかった。
 よし、まっぺん!
 ウィローは再度前足を振った。
 ――すかっ。
「キイ??(えっ?)」
 思いきり力をすっぽ抜けさせて、ウィローはアラシヤマの手の中できょとんとまばたきした。やはりヤシの実は全く浮かび上がらない。
 変だぎゃ。……このッ!
 ウィローはぶんぶんと手を振り回した。殆ど意地である。アラシヤマは急に暴れだした『テヅカくんの友達』を不審そうに見やった。
「コウモリはん? あっ、こら、痛うおますがな」
 ぺしぺしと、捕えている両手をひっぱたくウィローを、アラシヤマは解放してやった。確かにいきなり見知らぬ人間に抱き上げられては気分を害するのも当然だろう――まだ勘違いを続ける、鋭いのか鈍いのか判然としない青年であった。
 ……思うだけで駄目なら、呪文を使ったるがや。
 ウィローは自由の身になったのをこれ幸いと、ばさりと羽ばたき、五十センチほど後ろに離れた。
 彼が身につけているのは、別に、声に出さなければ用をなさない、というロボットヒーロー物アニメのお約束のような不合理な魔法ではないから、そのつもりなら心の中で呪文を強く念じればことは足りるのだ。日頃口に出して唱えることが多いのは、その方が明快で楽だからと、単なる彼の好みである。
 ――ラゥ・シュゼア・レルド……遼けき地に在りて秩序を衛りし者、己が同胞の名を告げよ。まことの名を知らしめ、我が命を刻め。WILLOW……Will-o'-the-wispの名を、喚びし我が盟約の証とせり……
 やろうと思えば最初のワンフレーズだけでもいいところを、魔道書どおりの全文大出血サービスバージョンの呪文である。……それでも変化は起こらなかった。
 躍起になってウィローは何度も繰り返した。
 だが一向に魔法が発動する様子はない。いつもなら自然に起こる、血の騒ぐような魔力の高まりがまるで感じられなかった。
 何でなんでゃあ?
「キュピ……(もしかして……)」
 すっ、と全身の血が失われ冷えきる感覚。事実に対する恐怖。理由は一つしか存在しえなくて……。
 ワシ……ワシ、魔法まで使えーせんくなってまっとるんだぎゃッ!!
 生まれ落ちた時から己に宿る魔力を自在に操り、それを当たり前としていたウィローである。魔法を使えなくなることは、すなわち、手足をもがれたも同じ――否、それ以上のことだった。まして、意思の疎通すら叶わないとなると。
 そして何よりも――。
 ワシ、もう二度と……一生、人間には戻れーせんのだ……。
 中和薬の材料組成を覚えていたことで喜んでいた自分の浅はかさに、ウィローは直面していた。そんなものを記憶していたところで、今となっては無用の長物にすぎなかった。
 何となれば。ウィローの作る魔法薬は、当然の前提として、彼の魔力を必要としていたのだから。
 一定以上の魔法力によって、いわば不確定要素の高い化学変化に似た状態を催させることで、はじめて作り出すことの可能な薬――それが彼の師であるドクター高松をして「特殊な製法」と言わしめる所以だった。魔力を失った今、調合することは絶対に不可能なのだ。
 自分の身に起こった現実に、ウィローは愕然として、握り締めていた前足をぱたんと下ろした。
 どうすやぁええの……?
 不毛な自問自答。自分にはどうすることもできない。その困惑と喪失感が、ウィローの精神を苛んでいた。
 ……ワシ……もう――。
 知らぬ間に涙がこぼれ落ちる。ウィローは泣き出していた。
「キュイ……(ふぇ……)」
 コウモリの姿となってしまっても、涙を流すことだけは可能であるらしかった。それがウィローにとって唯一の救いであったかもしれない。それさえもできなかったなら、一体感情をどう処理すればいいのだろう。
「キイ……キピ……(ひっく、えぐえぐ……)」
「コ……コウモリはん?」
 目の前で急に泣きはじめたウィローを、アラシヤマは焦って見なおした。
 わっ、わて、何ぞ泣かすようなことしたやろかっ。
 アラシヤマは思わず我が身を振り返った。いきなり抱き上げてしまった以外は清廉潔白のはずである。
「どないしはったん? コウモリはん?」
 アラシヤマの問いかけに、それまでしゃくり上げるような調子で涙をこぼしていたウィローは、突然激しく泣き出してしまった。
「キィ―――ッッ!!(うえぇぇーんっ!!)」
 呼ばれ方で悲しくなったのだ。『コウモリ』としてしか認められていない自分が無様で悔しくて。なのにどうしようもない自分が、情けなさすぎて。
「あ……あの、コウモリはん」
 わてのせいやろか……わての……。
 対するアラシヤマは、しなくてもいい自己嫌悪に陥っている。人間であれ動物であれ、泣かれるのにはめっぽう弱い彼である。
「キュピーッ!!!(ぴえぇぇーっっ!!)」
 それだけで手一杯といった様子の、幼児のようなその強い泣き方に、ふと、アラシヤマの脳裏を掠めるものがあった。
「……え?」
 不思議そうな面持ちで、彼はウィローを注視した。
 どこかで見覚えがある……はずだった。記憶巣を刺激する情景。泣いているコウモリの上を、どことなく似た外見の子供の、過去のビジュアルがすり抜ける。
『泣かんといてぇや、ウィローはん』
『うわあぁーん!』
『人が集まってきよりますがな、頼むさかいもう泣かんで……』
 ―――……
「まさか――ほんまの名古屋ウィローはん?」
 ウィローはびくりとして、ぱっと顔を上げた。
「ウィローはんなんどすか?」
 アラシヤマはウィローをじっと見つめた。己の出した結論は、繰り返すごとに確信へと近づいてゆく。
「そうや……ウィローはんどっしゃろ。間違いあらしまへん」
 首肯しかけて、ウィローは身体を硬くした。更に後ろに引く。ようやく素性を判ってもらえた嬉しさよりも、事ここに至って名前を呼ばれるにおいて、こんな惨めな姿が自分だとアラシヤマに知られてしまったことに、突如羞恥を覚えたのだ。どのようなことであれ、事の始めにそうと望んだことがいざ叶うと、大なり小なり恐慌状態になってしまう、それはウィローの精神形態の癖のようなものだった。
「キピッ(ワ……ワシ、知れせん!)」
 ばさりと、身を翻す。ウィローはそのまま飛び去ろうとした。
「ウィローはん、待ちなはれ! ――テヅカくん!」
「キィ!」
 アラシヤマの声に、テヅカくんは、逃げるウィローに追いすがった。
 コウモリ歴数時間の上に土地勘なしでは、所詮テヅカくんの飛追に適うわけはない。いくらも経たないうちに、ウィローはテヅカくんに腕を掴まれていた。
「キィ?」
「ピュイ!(おきゃあて!)」
 テヅカくんは、まだ泣きながら手足をばたつかせるウィローを、見上げて歩み寄ってくる『友達』の元に連れ戻した。
「おおきに、テヅカくん」
 礼を言っておいてから再びウィローの身体を抱き取り、アラシヤマは正面から元同僚を見た。
「そうゆうところ、まるきり変わってはらしまへんな。……空似なんかとちゃう。そうどすな?」
 ためらった末、涙でぐしゃぐしゃの顔でウィローは肯定した。今更ごまかしても仕方ない。
 ……誰より判ってもらいたくて、だからこそ誰より判らないままでいてほしかったのかもしれない相手……。
 アラシヤマは意を得てからりと破顔した。
「やっぱりそうや」
 ウィローはいささか呆然としていた。アラシヤマの鮮やかな笑顔に戸惑ったのだ。
 ――ウィローの知っているアラシヤマは、こんな風に笑うことなど殆どない人間だった。冷酷だからではない。ただ他人への接し方が判らなくてだ。……パプワ島はひとを変えるのだろうか?
「堪忍してや。わて、ちぃともあんさんやて気ぃつかへんで……」
 アラシヤマは、ウィローの小さな身体を片腕で抱き締めた。テヅカくんはぱたぱたと飛びながらその様子を見下ろしていた。
「そないなことはあらへんやろと思ぅとったのに、遂にあんさんまでこの島に……。ほら、もう泣かんでもええんどすえ?」
「キィー……(おぶおぶ)」
 ウィローの頭を帽子ごとぽふぽふと撫で、アラシヤマは指で目元を拭ってやった。
「もう大丈夫どす。わてがおりますよってな」
 ウィローは、頭をくんっと反らし、アラシヤマを仰ぎ見た。あの時と同じ、優しい声。腕の中、無条件の安心感が全身を包み込む。
 コウモリの姿で現れた理由を問いただすことを、アラシヤマはしなかった。それがウィローだと判明した時点で、彼には全てが見えていたのである。ただ手違いで魔法薬を飲んだ、というだけではなく、脱落者を片づける為に送り込まれたはずのウィローがなぜこんな薬を持っていたのかについても……。
 口に出したのは、
「……ウィローはんは、ほんまに心の優しいお人どすなァ」
 呟くような、たった一言。そこに何もかもの心情を籠めて。
 その一言だけで、自分のいだいた決意をアラシヤマが理解してくれているのだと判る。ウィローは青年を懸命に見上げた。
「………」
「きっと元に戻れますわ。安心しなはれ……今日からわてが世話してあげますよって。わてと、テヅカくんと連れもって暮らしまひょ。な?」
 ウィローはまだ時折しゃくり上げながら、こくんと頷いた。彼が、年長者ばかりのガンマ団内部に於いて無理に演じていた『大人』の部分は、アラシヤマの前では霧消してしまう。少年どころか、動作の一つ一つが子供のままだ。
「せやからもう泣かんといてな。……ああ、よしよし」
 なだめるように、アラシヤマは微笑んだ。
「そうと決まれば、家の中に戻りますかいな。まずは朝飯どすわ。――テヅカくーん」
 アラシヤマは声を投げた。浮遊していたテヅカくんはすいっと降りてきて、青年の右肩に座った。慣れたものだ。
 抱え込んでいたウィローを、アラシヤマはあいている左肩に乗せた。
「ここが今日からあんさんの指定席どす。ほら、しっかり掴まっとらな落ちますえ」
 手を伸ばし、軽く支えてやる。
 ウィローは、ほんのわずかに癖を帯びた、だが殆どストレートといってよいアラシヤマの髪にぎゅっとしがみついた。この先ずっと、これが彼の肩にとまっている時の基本ポーズだ。
 アラシヤマの頭髪に、ウィローは顔を埋めた。ばさついているのかと思いきや、見た目よりも髪質はさらさらで柔らかい。
 ――お日さまの匂いがするぎゃ。
 ウィローは心の中でひとりごちた。一番の安心を、自分は手に入れたのだ。言語疎通は、もう少し先でもいいのかもしれない。
 アラシヤマはきびすを返し、森を抜けた場所にある、隠れ家にしている自然の洞窟の方へ向かった。
 歩き出しながら、
「そうや、呼び方を変えた方がよろしおすな。『ウィローはん』のまんまやと何かと問題がありそうどすよって……」
 アラシヤマは不意に思い当たったように、目線を左肩に移した。ウィローは顔を離して見返す。
「?」
「……武者のコージはんやったらまだええやろけど、この島には、シンタローも、ミヤギやトットリもおる。きゃつらにはあんさんが名古屋ウィローはんやなんて知られとうあらしまへんのどっしゃろ?」
 ウィローの性格を見越した上での提言である。他者の呼称が、やわらかな物腰の水面下にどこか硬質な芯を持つ、アラシヤマの本来の性質を如実に表していた。本人の前では敬称接尾語を欠かさないが、自分の中での自他の位置づけはこうなっている、という見本だ。本質的な優しさと、いざという時には他人を平気で切り捨てることができる冷徹さを併せ持つ、それは彼の一面だった。
 ウィローはこくこくと深く頷いた。アラシヤマが微妙なプライド部分を理解してくれるのが嬉しかった。
「……せやかて、まるっとちゃう名前で呼ぶわけにもいきまへんし……そうどすなぁ……」
 アラシヤマは悩み込んだ。当座考えられそうなものというと……。
「姿が元と似てはるんはごまかせまへんわな……逆手にとって、似てるからゆうて先手を取ってウィローくんとか……うーん、けど元からウィローくんて呼んではった人もおらはったしな。名古屋くん……やと、あのドクターやし」
 洞窟に足を踏み入れた瞬間、アラシヤマは大きな声を上げた。
「そや、ウィローちゃん!」
 ウィローは目をぱちくりとさせた。アラシヤマはテヅカくんの姿勢バランスを崩さない程度に顔を左に向け、ウィローの意思を問うた。
「ウィローちゃんでどないどす? もし聞かれた時の理屈はそのまんまで」
 しばらく首をことんと傾げてから、アラシヤマの頬にウィローは小さな手でぺたぺたと触れた。それが同意の表現だった。
「よし! 決まりどす。さ、朝御飯にしまひょな、ウィローちゃん、テヅカくん」
 アラシヤマは、両肩の友達をくしゃくしゃと撫でて微笑った。
 ――アラシヤマさん、大好きだぎゃあ。
 純粋な感情と共に、ウィローは再び顔をすり寄せ、アラシヤマの頭に抱きついた。
 彼らの新しい生活が、これから始まる……。
 ほんの少しだけ、線路は征く道をたがえてしまったけれど。違った形で、ウィローは一つの幸福を手にしたのかもしれなかった。



 ……もう一度、みんなで笑い合えたらいい。


 ここは、想いを全て受け止め、浄化する、遥かな夢の楽園――。



<<<BACK  NEXT>>>

page select:INDEXPrologueBAT COMMUNICATIONSOLE DESIREEpilogue

取説NovelTOP