Fragrant olive


 ふうわりと香る花。
 ほろほろと舞い降る花。
 それはひと時の――


 ふ、と鼻腔を掠めた花の香りに、グンマは足を止めた。
 行き詰まったレポートの中休みに研究室を出て、何とはなし散歩を始めた矢先のことだった。
 遠くからでもよく届くそれは、秋本番の代名詞のような樹木にたくさん開く花の芳香。かなり強く甘い香りは、花自体よりも『芳香剤』のイメージが強いものかもしれなかったが。
「金木犀だ。どこだろ?」
 彼の育ての親のようなものである高松ならば、敷地に植えられている草木の分布を正確に記憶しているのかもしれないが、さすがにグンマはそこまで覚えてはいない。
 きょろ、と首をめぐらせてみたが、すぐに見つけることはできなかった。
 わずかな風向きは北西。ここに匂いが届くのなら、樹はそちらに行けばあるのだろう。そう踏んで、グンマは再び歩き出した。
 花を集めて戻って、ポプリにでもしよう。そう考えながら。
 どうやら、他の樹の陰になって見えていなかっただけらしい。いくらも行かないうちに、緑の葉に鮮やかなオレンジの小さな花がまるで実っているかのような樹がグンマの目に飛び込んできた。
「これかあ……あれ?」
 その樹の根元に誰かが立っているのに、遅ればせながら気づく。あったのは、
「ウィローくん?」
 自分は工学、相手は薬学という専門の違いはあれど、同じ科学スタッフとして、そして高松の弟子としてよく見知った少年の姿だった。
 いつもならばその身にまとっている、赤い裏地のついた黒のマントを、今は外して両手で端を掴み、ウィローは大きく広げている。金木犀の樹をじっと見上げる横顔は至極真剣なものだった。
 ほろ、と枝からこぼれる、オレンジ色の小花。さざめく風が木の葉を微かに揺らすたび、甘い香りと共に、花はほろりはらりと降っている。
 グンマの声に、しばらく少年は反応しなかった。
 彼だけまるで時間が止まったかのようにじっと佇んで数十秒も経ったあたりで、ようやくウィローは声の方へ顔を向けた。
「グンマ博士だねゃあか。散歩きゃあも?」
 にこ、と、それまでとは打って変わった人懐こい笑顔を浮かべて、手はそのまま、ウィローはグンマを見た。
 グンマは、ほっと息をつき、更に歩み寄る。
「うん、気分転換に。ウィローくんは花を集めていたの?」
 ウィローが広げたマントには、落ちてきたものを受け止めたらしい金木犀の花が一面に散らされていた。
「髪の毛にも花がついてるよ。取ってあげる」
 随分長くそこに立っていたのだろうか、前髪といわず頭のてっぺんといわず、くるりと巻いたサイドといわず、ウィローの髪にはいくつもの花が落ちてくっついていた。
 グンマは、指を伸ばして花を梳き落とす。意外にふわふわと柔らかな髪の感触が指先に伝わった。
「はい、これで大丈夫」
 グンマはにっこりと笑いかけた。彼にしてみれば、ウィローはお兄さんぶれる数少ない相手だ。
「こそばいかったけど、自分じゃ判れせんかったで助かるぎゃ」
 くすぐったげに首をすくめつつ、ウィローは花をこぼさないようにそろりとマントを折りたたんだ。
「いい匂いだよね。金木犀。ぼくも少し集めていこうかと思っていたんだ」
「ほんだったら、ワシのをちーと分けたまそか。仰山あるでよ」
「ありがとう。ぼくはポプリにするつもりなんだけど、ウィローくんも?」
 あらかじめ置いてあったらしいとんがり帽子の脇にぽてっと座り込むウィローの横に、釣られるようにグンマは腰を下ろした。どうせ急いで戻る必要があるわけではない。
「余ったら作ろかなと勘考しとるけど、半分は実験用だなも。あと半分はじっさまに送るんだぎゃあ」
「おじいさん? 大魔道士だっていう人?」
「ほうだ、ワシがいっちゃん尊敬しとる人だがね。一年にいっぺんだけ、今日この日に、花を入れて手紙を送ることにしとるんだわ」
 地面に再びマントを広げて、花の選別を始めながら、ウィローは答えた。
「別に金木犀だなて他のでもええんだけどよ、あんばよう咲く花だでもうけもんだが」
 どれでも気にいりゃあたの取ってきゃあせ、と言われて、グンマはポケットから白いハンカチを取り出して、形の揃った花をつまんで集めていく。
「ふうん? でも、一年に一度なんだ? どうして今日なの?」
 一瞬、ウィローは花を選別する指を止め、再び何事もなかったかのように枯れかけたものや花弁がちぎれたものを取り除き始めた。その表情は、一心に金木犀の樹を見上げて立っていた時と同じ、硬質なものだった。
「ワシが――この一年、まんだ生き延びとるって、この花の咲くこの時にここで生きとるんだって、その証明みてゃあなもんだわ」
 ガンマ団に在籍していたら、たとえ危険度は最前線の兵士より低くとも、研究者・参謀職とて戦死や事故死と無縁ではありえない。今を生きていること、それ自体が他の何を伝えるよりも、離れて暮らす家族にとって朗報なのだろう。『家族』皆、ガンマ団関係者であるグンマにとっては漠然とした認識ではあったが、彼とてそれくらいの推測はできる。
「……今日はワシの誕生日だで、ええ区切りだろ」
「えっ?」
 小声で示された事実に、グンマは目をしばたたいた。そういえば、確認したことがなかったと思い当たる。
「誕生日だったんだ! おめでとう、うわあ、知っていたらプレゼントを用意したのに」
 俯いていた顔をがばりと上げ、グンマはウィローを見やった。少年の瞳は変わらずにオレンジ色の花を見つめていた。
 口元でだけ笑って、
「気持ちはありがてゃあけど、ワシは何もいれせんわ。誕生日は、自分を祝うんだなて、ほんとはその両親に感謝する日だがね。産んでくれて――今ここに存在させてくれやあすことに。やーっと前から、じっさまがそう言ってござらっせたんだぎゃあ」
 年齢のわりに大人びた口調でウィローは話す。グンマは思いもよらない言葉に、軽く首を傾げた。
「誕生日は産んでくれた親に感謝する日、かあ。言われてみればそうだよね。ぼくはお父さんもお母さんももう死んじゃったけど、二人がいなかったら、今こうしてウィローくんと話したり、シンちゃんやおじ様や高松と過ごしたり、好きな研究をしたり、そういうことはできないわけだものね」
 簡単に感心してしまうところが時として「単純バカ」と言われる由縁なのかもしれないが、そんな自分自身のことは、グンマは決して嫌いではない。
「あ! ぜってゃあ、アラシヤマさんには言ってかんで。あの人は、自分のことも両親のことも嫌っとらっせるで、逆効果だぎゃ」
 だからこそ、アラシヤマに対しては、『彼がそこにいること』そのものに祝福を与えてやりたいのだと、彼がいてくれると自分は嬉しいということを知ってほしいのだと、ウィローは小さく呟く。
 少年の気遣いに、グンマはどこか暖かな気持ちで微笑んだ。しばらく前からウィローが実戦部隊ナンバー2の座にある青年にひどく懐いているのは知っている。
「うん、気をつけるよ。あ、花はもうこれくらいでいいや、分けてくれてありがとう」
 グンマは、より分けた金木犀の花を、丁寧にハンカチを折りたたんでポケットにしまった。
 ふう、と息を吐いて、空を仰ぎ見る。木々の上に見える蒼は、晴れてはいるのだがどこかぼやけてくすんでいた。これがいつも見慣れた空だ。
 ――綺麗に透き通った青空ならいいのに。せっかく、ウィローくんが生まれた日なんだから。
 埒もなくそう思って、グンマは軽く目を細めた。
「何を見とらっせるの?」
 選別を終えたらしく、花を詰めた袋を横に置き、ぱたぱたとマントをはたいてふわりと肩にかけてから、ウィローはグンマと同じように空を仰いだ。
 きょとり、と大きな瞳をまばたかせて、ウィローはじっと天を見上げていた。そこに何かを探すように。
「もっとはっきりとしたいいお天気なら良かったのになって思ってただけだよ」
「ガンマ団におったら、これがあたりこだがや。まっとええ天気なんて滅多にあらすか」
「うん、そうだね。でも、今日くらいは――」
 一年中、世界中のどこかで誰かは誕生日を迎えるのだけれど。せめて、ここにいる知己の、その生誕の日だけは。透明な空と、穏やかな日差しと、優しいひと時が与えられればいい。
 一年に一度きり、己の存在を与えてくれた者たちに「まだここにいる」そのことだけを伝える、幼いとも言っていい真摯さに、何がしか報われるものがあればいいのに。
 ささやかな願いを、グンマは心に抱く。
 ――神様、もしも叶うものならば、と。
「グンマ博士って、変な人だなも」
「えぇ? いきなり何を言い出すのさ、ひどいな」
 ぽつ、と告げられた言葉に、グンマはちらりと隣を見た。
「悪口でねゃあて。ぢべたに座って付き合やぁす人はあんまりおれせんで、嬉しなっただけだが」
 相変わらず空を見上げたまま、どこか楽しげな微笑がウィローの顔に浮かんでいた。
「そうかな、ぼくは結構好きだよ、こういうの」
 くすりと笑ってグンマが答えると、ウィローは一度口を閉ざし、ややあって再びぽつりと呟いた。
「……やっぱり、グンマ博士って変な人だがや」


 ひとつ、またひとつ、再び降る小さな花。甘い匂い。くすんだ青空の下の他愛もない時間。

 生まれたこの日に、そこにいられることに祝福を。どうか神様。


 ふうわりと香る花。
 ほろほろと舞い降る花。

 ――金木犀の樹の下の、それはほんのひと時のできごと。


>>>取説NovelTOP