生まれ来る子供たちのために【第一夜】


 抱いた想いはずっと、変わらない……。


「ねえ、見て、お兄ちゃん! お星さまいっぱいだよ」
 広い丘の上、振り返って招く笑顔。
「どれどれ……へーえ、すごいな、コタロー」
 弟の一歩後ろに立ち、肩に手を置いて、二人で空を見上げた夜……それは、人工光の多いところにずっといたせいで、こんな星空を見ることなど滅多になくて、二人して半ば興奮状態だった、たった一度きりの旅行の日の記憶だった。
「あ、流れ星!」
 弟の弾んだ声が、今でも耳元で聞こえる。
 ……コタローがいなくなって、もう随分経つのに。
 俺は朦朧とする意識を懸命に保って、リュックに入れた秘石を確かめた。
 青く輝く、一族の象徴だという宝珠。俺にとってはただの石コロだったけれど、自分から大切なものを奪い去ったマジックに、それを思い知らせてやりたかった。
 だから盗んで逃げて、そして……。
 父を捨て、ガンマ団を捨て、二度と戻らない決意をした。本当に嫌いだったわけじゃない。でも、それよりも大切なものが、俺にはあったから。
「お兄ちゃん、だぁーい好き」
 霞む視界。青い光の向こうに、幸福だったあの日々が浮かんでは消える。
「ね、お休みになったらまた一緒に流れ星見に行こうね!」
 俺が仕事から戻る度、飛び込むように抱きついて何度もそう繰り返していた弟。ああ、そうだ、もうすぐコタローに逢える……きっと――。
 そして、そう思ったところで意識は途切れた。


 波のさざめき。さくさくと砂を踏みしめて近づく足音……。
 見知らぬ景色に戸惑って辺りを見回す。目をとめたその正面に、小さな子供と一頭の犬がいた。
 あまりにまっすぐな幼い瞳。一瞬だけ、なぜかコタローに似ているような気がした。
「ここ……は……?」


「今日からおまえも友達だ!」
 臆することのない、少年の宣言……。


  ……そして、何もかもが始まったのだ――。




多くの過ちを僕もしたように
愛するこの国も戻れない もう戻れない
あのひとがそのたびに許してきたように
僕はこの国の明日をまた思う
ひろい空よ僕らは今どこにいる
頼るもの何もない
あの頃へ帰りたい
ひろい空よ僕らは今どこにいる
――生まれ来る子供たちのために何を語ろう
何を語ろう
君よ愛する人を守り給え
大きく手を拡げて
子供たちを抱き給え
ひとりまたひとり 友は集まるだろう
ひとりまたひとり ひとりまたひとり





生まれ来る子供たちのために【第二夜】


 君が希望を欲すなら、僕は絶望を引き受けよう。
 君が喜びを願うなら、僕は悲しみを受け入れよう。
 きみがつらくないように。きみがわらっていられるように。
 ――忘れないで。僕はいつも君を見守っているよ……。


「洗い物全部終わり、っと」
 シンタローは手を拭き、卓袱台の方へ戻ってきた。その傍では、パプワとチャッピーが何やらじゃれ合いつつ、明かり取りの窓から夜空を眺めていた。
「何見てんだ? ほら、もう寝床敷くぞ」
 言いながら、シンタローは卓袱台に手をかけて持ち上げた。部屋の隅へそれを移動させる。
 パプワは敷布を広げる青年の足元にまとわりついて呼んだ。
「シンタロー、シンタロー」
「邪魔するなって――。何だよ?」
 ぽっちゃりした小さな手で、パプワは指差した。
「外を見てみろ。キレイだぞ」
「あん?」
 ひょい、とシンタローは今までパプワが見上げていた窓に視線を投げた。
 漆黒の空にちりばめられた星々。そこを、
「あ……」
 ――すぅ……っとあわい軌跡を描いて光が消える。
 間を置かず、立て続けにいくつかが横切った。少年が指したものがそれであることは間違いない。
「流れ星……か」
 明暗のはっきりした空に降る流星……それは、パプワ島の夏の風物詩だ。
「もうそんな時期なんだな」
 シンタローが体験するのはこれで二回目である。最初の年はまだ素直に鑑賞する心の余裕など持たないままに終わってしまったが。
 ……けれど今年は。そう、きっと――。
 しばらく外を見やっていたシンタローは、やがて微笑んだ。本人が自覚しているよりはるかに優しさを帯びた瞳のいろ。
 彼は傍らのパプワの頭にぽんっと手を置いた。
「……星、見に行こうぜ、パプワ」


 いつもの海岸で、青年と少年と犬は並んで夜空を仰いでいた。
 吸い込まれそうに澄んだ天然のプラネタリウムを、一つ、そしてまたひとつ、光の糸が飾ってゆく。
「すげぇ……」
 途中から数えることをやめ、無心に眺めることに専念していたシンタローは、正直な感想を洩らした。流星群というより、既に流星雨だ。よく記憶してはいないが、確か去年はここまで多くなかった気がする。
「こんなの生まれて初めてだぜ」
「……じいちゃと見た時は、こんなものじゃなかったぞ」
 パプワは天を見上げたまま呟いた。カムイを思い出したのだろう、追憶の響きが幼い声に宿る。
「ずっといっぱい――本当に雨みたいで……」
 シンタローは、右横で目一杯頭を反らして星空を一心に見つめるパプワに視線を向けた。
「だけど――」
 その髪に手を伸ばし、くしゃりと撫でる。驚いたようにまばたきして、パプワはシンタローを見返した。
 カムイにしかされたことのないスキンシップのとり方。
 パプワはそれに慣れていなかった。もっと幼かった頃から島中の誰よりも彼は強かったから、こんな一方的な『子供』扱いを受けることなど殆どなかったのだ。そして、シンタローに触れられるのは決して不快なことではなくて……。
「でも、今日のこの空だって充分にすごい、んだろ?」
「……まァな」
 拗ねた頷き方をする少年が妙に可愛くて、シンタローは笑いながら、何度も荒っぽいほどにパプワの頭を撫でた。
「何をするんだ、シンタロー。僕はコドモじゃないぞ」
 むくれつつも、パプワの言葉に拒否の度合いは極小だった。滅多にない経験で戸惑ってしまって、どう対応していいか判っていないだけのことである。その一種の不器用さに、いつの頃からかシンタローは気づいていた。
 子供はもっと愛を得ることに我が儘でいいのだと、彼は思う。たしかに日頃の振る舞い、傍若無人ぶりは我が儘以外の何物でもないのだが、そういったこと以外の、あって然るべき貪欲なくらいの他者への愛情の要求を、パプワは無意識におし殺している節がある。――そう慮れるようになったのは、シンタロー自身の成長によるものだ。
 だからこそ、たまには甘やかしてやりたかった。絶対に必要な、うっとうしいほど愛される経験が足りないまま、彼は独りに――ある意味で――なってしまったのだろうから。
「なぁーに言ってやがる、幼児期真っ盛り」
 今ばかりは、シンタローにとってパプワはただの、たった数歳の幼児だった。
「こっち来いよ。……んしょっと」
 シンタローパプワを引き寄せ、自分の膝の上に抱き上げた。腕を軽く回して抱え込む。パプワはちょこんと膝に座ったまま、青年にもたれかかる恰好になった。
 またひとつ、星がスパークする。
 二人と一匹は、期せずして再度空を仰ぎ見た。
 こんな時間を過ごせることは、おそらく幸福の領域に属するのに違いなかった。


 空を埋め尽くす恒星の群れと、その中に降る光の雨。それが数を減らしつつある。天体ショーは終わりに近づいていた。
「わぁう」
 時々尻尾をぱたりと動かしながら寄り添っていたチャッピーが、ふと声を抑えて、呼ぶように小さく鳴いた。
「ん? どうした、チャッピー」
「わう……あう?」
 チャッピーはシンタローの腕の中に頭を寄せた。青年は見下ろして納得の表情を浮かべた。
「あーあ、やっぱり寝ちまったか」
 彼の胸に寄りかかっていたパプワは、いつの間にか寝息をたてている。無邪気そのものの寝顔に、シンタローは小さな笑みをこぼした。
 もう夜も遅い。無理はなかった。
「……こうしてると可愛いんだけどな」
 あどけなさはいとおしさを生む。
 シンタローはパプワのふっくらした頬をそっとつつき、次いで撫で、その身体を抱えなおした。
 やわらかな身体がすっぽりと青年の腕におさまる。子供独特の匂いが、懐かしさを喚びシンタローの鼻腔をくすぐった。
「あったけー……」
 南国の盛夏とはいえ、海岸線を吹き抜ける風の中感じる、護るべき存在のぬくもりは、決して嫌悪感や不快感を伴うものではない。人の持つ感覚の、ある種の身勝手さだった。
「パ――」
 うたた寝させるわけにはいかない。名前を呼んで一旦起こそうとして、シンタローは思いとどまった。
「寝る子は育つ、か」
 幼子の眠りは神聖なものだ。打ち破ってはならなかった。
 細心の注意を払い、努力しながら、パプワを抱いたままシンタローはそろそろと立ち上がった。
 姿勢の変化に気づいたのか、抱かれた腕の中で、もそもそと少年は身じろぎしていたが、すぐに安らかな表情がとって代わった。
 首を傾けて改めてそれを覗き込み、満足そうにシンタローは微笑った。
「……帰るか、チャッピー」
 囁くほどの声で、青年は促した。
「わう」
 同意して、チャッピーはシンタローについて歩きだした。

 ――まもりたいものがある。

 声に出さず、シンタローはひとりごちた。少し前までたった一つだった、しかし今はそれだけではないもの……。
 もしかしたら、それはまだ、奪い去られたものへの代償行為に過ぎなかったのかもしれないけれど。それでも想いに偽りはなかった。
 力強い生命の源が、ここにあることこそが大切なのだから。
 世界の全てに足る眠り。存在は未来そのものの象徴だった。
 時折パプワの様子を窺いながら、シンタローは『家』に向かって歩いていった。遠い地に在る者へも届くよう、心から呟く。
 ……古い言い伝えどおり、流れ星に願いを託すことができるならば。
 我の知る幼子たちを守り給え、と。穢れのない魂を祝福し給え、と……。
 不意に、パプワがずり落ちかける。シンタローは体勢を整え、少年をしっかりと抱きくるめた。
「寝てる子供って急に重くなるよな……」
 生命の確かさと同種の重さが、心地よい幸福感を伝えてくれる。
 パプワは全体重をシンタローに預け、安心しきったように眠っていた。ここが、今の何よりも安らげる場所だった。
 シンタローは無防備な寝顔に囁きかけた。
「おやすみ、パプワ……」
 聖なるまどろみの中、少年もまた、純粋な望みを繰り返す。
 来年も同じ時間を過ごせますよう……ずっとずっと、変わらないままで――。
 人の去った浜辺で、波が静かに砂を浸す。その夜最後の流星が、二つの願いを受けて、天空を緩やかに輝き落ちていった。



……今は、楽しいことだけ覚えて大きくなればいい。悲しいことも苦しいことも、大人が請け負う領分だから。


 幼い天使を、守れるように――。




真白な帆を上げて 旅立つ船に乗り
力の続く限り
ふたりでも漕いでゆく
その力を与え給え
勇気を与え給え


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