───遙かなる呼び声を聞くがいい。
片羽を求めるその悲痛な叫びを。
「…何だ、来てたのかお前。」
「あ、オラトリオ♪」
カウンターに乗り出すようにして何事かを懸命に訴えていたシグナルが、振り返って笑う。カウンターの向こう側で、図書館の主もほっとしたように笑って見せた。
「おかえり、オラトリオ。」
「おう…何読んでんだ?」
出迎えの言葉に軽く返して、カウンターに広げられた本を覗き込む。最近手土産という高等なことを覚えた末弟は、時折こうして軽い読み物などを持ち込んでくる。多くは信彦と一緒に読んだ子供向けの童話だったが。
オラクルがそれを結構楽しみにしているのも知っているから、あまり表だって咎める気はないが、これもある意味では違法行為である。
「ああ、この話か…」
シグナルが今回持ち込んだのは、オラトリオにも憶えのある話だった。子供向けの動物記の中の話───『王』と呼ばれた誇り高き狼の。
「これのさ、『ロボ』ってカッコイイよな♪」
すごいアタマ良くってさ、でも優しいトコもあってさ。人間にはやなヤツだったかも知れないけど、とまくし立てる少年に苦笑して、オラトリオはカウンターの椅子へ腰を下ろした。
「そんで熱心に解説してたワケか?」
オラトリオが呆れたように言うと、少年はぷん、とふくれて隣の椅子に腰を下ろす。長い髪がうるさげにうねって、プリズムに光が跳ねた。いつもながら子供のようなその仕草に苦笑いして、オラトリオは読みかけの本をぱらぱらとめくった。
「…でも最後は死んじまうんだろ?」
「それはさ、ブランカのせいじゃん。」
いくら奥さんだって言ってもさ、捕まるって分かってるのにロボを呼ぶなんて、ぼくだったらしないのにな。
「…そうかな。」
どこか困ったように、オラクルが小さく呟いた。訝しげなオラトリオの視線にふわりと笑って見せ、青年は取り出したティーセットで3人分の紅茶を入れる。そのほんの僅かな間に気づかないシグナルは、思わぬ反論にむきになって言い返した。
「だってそうだろ、捕まったのだって自分が悪いんだし!」
「…うん、私も好きではないけれど。」
でも分かるような気がするな、と笑う顔が何故か辛そうに見えて。オラトリオは供された紅茶を口に含んだ。広がる香気の影で僅かに顔が曇ったのは、微かに残る渋みのせいだったろうか。
「…やーっと帰ったか。」
『師匠』の悪しき慣習を見習うかのごとく、カウンターホールから直接帰っていった虹色の光跡を見送って、オラトリオが大きく伸びをした。にぎやかなのも悪くはないが、本来静寂を旨とする《ORACLE》には少々荷の勝ちすぎる客ではある。
「そういう言い方はないだろう、オラトリオ。」
咎める言葉も口調は甘い。どれほど気の置けない仲であっても、客というのはそれなりに気疲れするものだ。どちらかと言えば、オラクルの方がそれは顕著だろう。
「いいじゃねーか、厳密には『客』じゃねぇんだし。」
悪戯っぽく笑ってみせる相棒を軽く窘めるように睨んで、オラクルも苦笑した。
「まあ確かに賑やかだけどね。」
シグナルはいつも元気だよね、と笑う表情がどこかぎごちない。溜息を吐いたオラトリオは、シグナルの置いていった本の表紙を軽く指で弾いた。
「…んで?これの何にひっかかってんのかなぁ、オラクル?」
ん?と器用に片眉を上げた男に、一瞬ぴたりと停止した表情がふとゆるみ、オラクルの顔に悪戯を見つかった子供のような笑みが滲んだ。
「…何でお前には分かってしまうんだろうな。」
溜息のようなその言葉にオラトリオは笑った。同じプロジェクト、同じ電脳。共有するそれらのせいもあるだろうが、『分かる』のはオラトリオがオラクルを見ているからだ。その仕草、表情、口調、吐息のその音色まで、おそらくはオラクルが自分を見ているように。
「俺はお前の守護者だぜ?」
これもお仕事のひとつだからな、と笑って見せた男に、オラクルがふと寂しいような色を瞳に混ぜた。青年がす、と本の表紙を撫でると、そこからうっすらと白い影が浮き上がる。『王』と呼ばれた孤高の狼が、ただひとり傍らに在ることを許した純白の雌狼。若くほっそりとした肢体と、生き生きと輝く野生の瞳を持った彼女のために、王はヒトに屈したのだ。
「…さっき、シグナルが彼女を嫌いだと言ったろう?」
手の上でその影を遊ばせながら、オラクルが囁く。無邪気に転がり回る狼を愛おしげに見つめるオラクルの瞳は、痛い程にその純白の光を映していた。
「…私もだよ。」
くしゃりと握った手の中で、純白の影が粉々に砕ける。チチッ、と微かな音を立てて歪んだ欠片が、磨き込んだカウンターの上へ落ちた。
…しりりん。
「まるで私みたいだから。」
《ORACLE》から動けない自分。ヒトの悪意に晒されて、為す術もなく半身を呼ばうしかない無力さ。 そんなものが嫌になるほど似ている、そう思っただけだ。
「───今更だな。」
そう呟いて苦く笑うオラクルは、それでも『呼ぶ』ことを躊躇ったりしない。僅かに芽生えた逡巡など容易くねじ伏せ凌駕する、底の見えない恐怖に晒されて躊躇う余裕など、囚われの賢者に持たされてはいないから。
オラトリオは俯いてしまったオラクルに手を差し伸べて、くしゃりと頭を撫でた。
「ばぁか、んなこと考えてんじゃねーよ。」
「…馬鹿はないだろう。」
力無く抗議して手を払った青年に笑って、オラトリオはカウンターの上の本からデータを抽出し、『王』の名を頂く一匹の獣の姿を呼び出した。銀に近い灰色の毛並み、知恵に輝く琥珀の瞳。
「お前と『ブランカ』が似てるんなら、俺とコイツも似てるってことだろ。」
物憂げな色を浮かべ、ゆったりとくつろぐ姿。群れの長として牙を剥き、敵を屠るその力。似ているとするなら、そんなところではない、と男は思う。
「だったら呼ばれなくてもコイツは行ったと思うぜ?」
自分がそうであるように。
生き延びたいという野生の本能に似たものを、オラトリオも持っている。《ORACLE》のスペアとしての機能をも併せ持つ以上、共倒れになるわけにはいかないからだ。己に組み込まれたそれが本当に危険だと判断したならば、A-O〈ORATORIO〉を優先するためのプログラム。
───〈ORACLE〉という人格(パーソナル)を、見殺しにするという。
それでも自分は、〈ORACLE〉を守り抜くだろう、たとえ自己崩壊を引き起こしてでも。
似ているとするなら、そんな馬鹿なところだとオラトリオは小さく笑った。
「…お前はそれでいいのか?」
顔を上げたオラクルの、揺れる瞳の中に遠く映った自分が甘く笑みを浮かべるのを見つめながら、オラトリオは囁いた。
「それこそ今更だぜ、オラクル?」
「…馬鹿。」
───呼ぶがいい、我が半身よ。
遙かなるその呼び声に応えよう、たとえ己を擲つとも。
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