触れ合わない手。



 きっと…
         この泣きたくなるほどの気持ちを、
オラトリオは知らない…





 「演算が…きつい…。すまんあとは…たの…む」

 掻き消えたオラトリオのCG。
 あの瞬間の、心の底が冷えていく感覚を、どう説明すればいいのだろう。
 リンクを切られても、データを渡してもくじけなかった私の心に小さなひびが入ったのは、
恐らくあの瞬間だっただろう。
 知る術のないオラトリオの状態。
 目の前の侵入者に対する私は、そのことに頓着する余裕などなかった。
 だが…
 今、止まらないこの震えは何だろう。
 侵入者が去り、オラトリオの声が聞こえた時は感じなかった、冷たいこの感触。
 私には、分からない。
 この感情が何なのか…





 「オラクル…」

 プライベートエリアで休んでいたオラクルは、ドア越しに遠慮がちに響くオラトリオの声で
目を開けた。
 少しだけ掠れた、オラトリオの声。
 恐らく、プログラムの損傷が影響しているのだろう。
 オラクルは、応えずベッドの上でごろりと寝返りを打った。

 「聞いているんだろう…?」

 返らない応えに、オラトリオは小さくため息をつく。
 そのまま、オラトリオはずるずると床に座り込んだのか衣擦れの音がした。
 オラクルは、聴覚構築のレベルを上げてじっと耳を澄ます。
 互いの様子を探りあうかのような沈黙がしばらく続いた。

 「オラクル、すまねぇなぁ…俺、いっつも偉そうなこと言ってるくせに、肝心の時に
役立たずだったわ…」

 ことん、とドアに頭をもたせ掛けて、オラトリオは低く呟くように言う。

 「ほんと、すまねぇ…」

 静かなささやき。
 恐らく、現実空間では聞こえることのないほどのかすかの声で、オラトリオはささやく。
 オラクルは、ぎゅっと掛け布団を握りしめた。
 いつもより近くなった感覚から、オラトリオの状態が伝わって来る。
 常にヒートストレス気味のボディを苛む、更なる熱。
 破損したプログラムがもたらす、うずくような痛み、倦怠感。
 そして、傷つけられたプライド。
 守れなかったという思い。
 身も心もずたずたで、ぼろぼろで。ちりちりと神経回路を焦がしているというのに。
 それでも、この守護者は決して言わない。
 辛いという言葉は、一言たりとも…。
 辛い時ほど、黙して語らぬオラトリオ。
 ただその唇が紡ぎ出すのは。
 いつだって謝罪の言葉、気遣う言葉、慰める言葉…。
 そう、オラトリオは優しい言葉しかかけない。弱音など吐かない。
 己を犠牲にしても、<ORACLE>を。オラクルを、守る。それが、オラトリオ。

 「私は…私…は……」

 オラクルは、ギュッと目を閉じた。
 そのまなじりを、涙がすべり落ちて枕へとしみこんでいく。

 「<ORACLE>に預けられた情報を守るためなら、お前を見殺しにするぞ…お前は
…それでも…構わないと言えるか…?」

 切れ切れに発せられたオラクルの言葉に、オラトリオが息を吸い込む音が聞こえた。
 考え込むような、しばしの沈黙。
 やがて、かすかに苦笑する気配が伝わってきた。

 「構わない…」

 俺もきっと、その時はそうするから。
 その瞬間オラクルには、紡がれなかった言葉がそう続くであろうとわかった。
 あまりにも近い感覚から、ふと漏れてきた静かな悲しみの言葉。

 「そうか…」

 短く呟いて、オラクルは起き上がる。
 扉にそっと歩み寄ると、それに寄りかかるように座った。
 決して手は届かず、しかし限りなく近い場所にある感覚。
 それがオラクルに涙させる。

 どんなに抗おうとも、プログラムされた命令には逆らえない。
 預けられた情報を守る為には、この掛け替えのない半身さえも犠牲にせよと、それは告げる。
 逃れられない呪縛。
 たとえ、それがどんなにこの心を痛めつける結果となったとしても。
 その時が来れば、その命令に従うのだろう。
 我らは、人に創られた電子の幻影。従順たるべきロボットでしかないのだから。

 「だから…私に謝らないでくれ…私は、私では…お前を守れない……」

 オラクルの悲痛な呟きに、それでもオラトリオは笑う。
 微かに、口の端を上げて。

 「俺たちって、本当に不自由に出来てるよな…」

 くくくっ、とのどを震わせて笑うオラトリオに、オラクルもそっと涙を拭って微笑む。

 「ああ…本当に…」

 それでも、自分たちを哀れだとは思わない。
 たとえ、結末は変わらないとしても。
 それでも精一杯あがいてみよう。私たちには未来があるのだから。
 たった一粒の可能性でも、あきらめたりしない。それに賭けたい。
 愚かだと笑われてもいい。あきらめたくないのだから。

 「すまない…今だけは…このまま……」

 だけど。
 今だけは、ほんの少しだけ休もう。
 この後にはきっと、想像を絶する戦いが待っているだろうから。
 どんな危険があるかわからない。その為には他のHFRたちをだまし、出し抜き、傷つける
こともあるかもしれない。
 もしそうだとしても。
 私たちには、選択権などないのだけれど。
 だからこそ、今だけは。

 そう呟いて、オラクルは目を閉じる。
 オラトリオも、いつしか引きずられるように意識を失っていた。
 手さえ触れ合うことのないこの扉一枚に隔てられた向こうに、存在している半身。
 この距離が教えてくれる。
 決して同質ではなく、しかし限りなく近いその者が確実に在る事を。
 たとえ己自身では選び取れない理に支配されていても。
 確かなのは、この半身が大切であり、掛け替えがないということ。
 それだけを知っていればいいのだ。





 そう…もしも届かなくても、
         私はきっと構わない。
お前が傍にいるのだから。
      私は1人じゃないのだと、
            きっと知ることが出来るから。

   手の届かない、この距離があるから…。