オアシスの水のほとりで 〜act.1
ここがおれのただひとつの場所だなんて、そんなこと、別に思っていたつもりはない。
「ギーヴ……」
赤紫色の髪を持つ美青年は、その紺色の瞳を右斜め上に向けた。彼の『とりあえずの』主君が、ひょこりと樹の幹の陰から顔を覗かせている。
ペシャワールを出立して港町ギランへと旅を始めて、数日後の夜のことだった。
「アルスラーン殿下。どうしました、おれに何かご用ですか?」
「大したことではないのだけどね」
アルスラーンはにっこりと微笑みかけた。今仰ぐ天空と同じ、晴れ渡った夜空の色の瞳に優しさを滲ませて。一五歳に満たないこの少年の、それはある種の特技であったかもしれない。その笑みを見ているとつい引き込まれそうになるのだ。
無害そうな――実際無害な性格なのだが――微笑で、アルスラーンは相手の敵意や隔意といったものを全て取り払ってしまう。だがその無垢さ、優しさが、一方で、その故にアルスラーンを危険に巻き込む可能性は決して低くはないはずだった。もっとも、軍師を務めるナルサスに言わせれば、殿下はそれでよい、我々が殿下を不必要な危機に遭わぬようお衛りすればよいのだから、ということになるのだが。
「もしよければ竪琴を弾いてもらえないかと思って」
アルスラーンは少し首を傾げるようにして未来の宮廷楽士を見やった。
「駄目だろうか、ギーヴ?」
……この辺りがアルスラーン殿下のアルスラーン殿下たる所以だな、とギーヴは思う。彼のような卑しい身分――と世の中の『身分の高い』人間が評する――の存在に対して、望みを命令ではなく頼みに置き換えるところといい、更に譲歩の言葉を重ねるところといい、王族らしからぬ控えめさではないか。
こんな『王子さま』がいること自体がギーヴなどには不思議でならないのだが、当の本人はその希少価値に気付いているのかいないのか、いつも変わらずに同格の者に接するような態度を臣下たちに向けるのだった。ギーヴ自身の感想はといえば、これは、威張りくさるのを当然と思っていやがる連中に比べればはるかにまし、となるわけであった。
「いいえ、お望みのままに」
嬉しそうな少年の顔を瞳に映しながら、ギーヴは傍らに置いてあった竪琴を手に取った。二、三度弦をはじいて調子を確かめてから、ギーヴは緩やかに音を奏で始めた。*-----*-----*-----*-----*-----*-----*
「……ギーヴか」
木々をすり抜けて届く透明な音色に、この季節ではさすがに暑いとて野営の火を遠巻きにしていた者達は、意識を喚起させた。
「本人の性格はともかく、楽器を奏するのはうまい御仁じゃ」
ファランギースは褒め言葉ともあきれともつかない言葉を洩らした。
ナルサスに寄り添える位置をしっかり確保したアルフリードと、それに対して「ナルサスさまにべたべたするんじゃない! お前なんかがいたら迷惑だし暑苦しいだろう!」と相も変わらぬ喧嘩口調を投げつけるエラム、半ば諦めの境地といった体で地図に目を落としているナルサス、剣の手入れに余念のないダリューン、座を外した王太子が気になるのか今一つ落ち着きのないジャスワント――この旅程の同行者はそれで全員だった。鷹の告死天使は手頃な岩に羽を休め、人間たちの様子を頭を揺らしながら眺めていた。
「綺麗な音色だねえ、ナルサス」
「へん、お前に音楽なんて判るのかっ」
「……何さ、エラム、あんたこそ、随分と偉そうな口をきいてるけど本当に判ってるのかい!?」
「判るさ。お前と違って、ナルサスさまに教養の一端として教わってるからな!」
「いくら教える側が優秀でも、教わる側に問題があっちゃね。どうしようもないとあたしは思うけど?」
「こらこらお前たち。少しは黙っていなさい」
ナルサスが苦笑混じりに注意する。エラムとアルフリードは互いに視線を交換した。
「ごめん、ナルサス」
「はい、申し訳ありません。……ほらみろ、アルフリード、お前のせいでナルサスさまが気分を害されたじゃないか」
「あたしのせいだって言うのかい! 小さな子供じゃないんだから少しは自省ってものを知ったら、エラム?」
「ちゃんと知ってるさ。ただ、お前に対して感じる必要がないだけだい!」
再び開始された少女と少年の舌戦を聞き流して、ナルサスは竪琴の弦が奏で出す音に耳を傾けた。ダリューンも知らず手を止めている。ジャスワントだけが音楽観賞している半分とアルスラーンが見えるところにおらぬ不安がつくる半分との狭間を行ったり来たりしていた。
だが、ギーヴの為人に反発を唱える者であっても、彼の演奏の腕は認めずにおくことのできない程のものであり、そしてこの楽士の腕の冴えは楽器を弓に持ち替えても決して前者に劣らぬのだった。*-----*-----*-----*-----*-----*-----*
「ひとつ訊いてもよいだろうか、ギーヴ」
幾曲目かの音が止んだところで、アルスラーンは呼びかけた。
「何でしょう」
「何故、おぬしは私についてきてくれるのだ?」
アルスラーンの問いに、真意をはかりかねてギーヴは面食らった。
「は……あ?」
とつとつと、表現力の不足をもどかしがっているような口調で、アルスラーンは部下であり仲間である青年にゆっくり話しかける。
「ダリューンやナルサスやジャスワントや……彼らが、未熟に過ぎる私を何にも増してもりたててくれるのは、分を超えた、身に余ることだとは思うけど、まだ判らないでもないんだ。彼らは――私もだけれど――世の中というものの枠組みの中に在るから……だけどギーヴは……本当なら、自由に旅して余計なしがらみを持たずに、自分の思うがままに生きているはずの人だろう? 私はそんなおぬしにかなりの不自由を強いている。なのに――」
ギーヴは竪琴を抱えなおした。目を細める。
「殿下、それはいささか違いますね。おれはずっと自分の好きなように生きている。あなたにお仕えするのも、おれがやりたくてやっていることですから。あなたについていけば、何か面白いことに出合えそうだ――そう考えた結果です。……失望しましたか?」
「いや――ギーヴらしいな」
アルスラーンは小さく笑った。
ギーヴは細く長い指を組んで、木々の向こうを見はるかした。それから少年に視線を戻す。
「どうします、もう何曲か弾きましょうか。演目には事欠きませんが」
「うん……聴きたい」
アルスラーンは首肯した。頷きを返して、ギーヴは手にした竪琴の弦に再び指を掛けた。*-----*-----*-----*-----*-----*-----*
「おやまあ……」
ギーヴは苦笑を口元に浮かべた。
アルスラーンはいつのまにか横たわり健やかな寝息をたてていた。
絶えず緊張を強いられる行軍とは違い、国王の追手さえ気にしなければどちらかといえばのんびりとした平穏な旅程であるはずだが、それでもいくらか疲れを感じ始める頃なのであろう。
「曲の途中で眠ってしまわれると、おれとしちゃ少し複雑なんですがね、殿下」
ギーヴはひとりごちて、竪琴を地面に置いた。
その瞳に宿る色がすり変わったのは、一瞬のことだった。
「お優しい王子さま――」
ギーヴは呟いた。何処か侮蔑に似た響きだった。少年の頬に指先を触れる。
「あなたを粉々に砕いてやりたいという思いをおれが抱いてるなど、想像もしてはいないのでしょうね……」
無垢なものを大切に思う反面で汚したくなる――それは人の救いがたい性であるかもしれなかった。たとえ程度の差はあったとしても。
だが、と続け、ギーヴは自嘲の笑みを刷いた。アルスラーンは光の中こそふさわしい。もしその輝きが薄れれば、比例して、ギーヴのアルスラーンへの興味も薄れるに相違なかった。
「結局おれも存外ひとがいい、と」
意識を切り替えて、眠ってしまった少年を皆のところへ連れていこうか、とギーヴが考えた時である。
「やはりこちらであったか」
凛とした女性の声が降ってきた。嬉々としてギーヴは振り仰いだ。
「これは麗しのファランギース殿。あなたの方からおれに甘い夜を求めにきてくださるとは光栄の至り」
「誰がおぬしと甘い夜を過ごさねばならぬのじゃ。ジャスワントが、アルスラーン殿下をあまりに心配するゆえ、こうして参っただけのこと」
言われてみれば、ファランギースの後ろにはシンドゥラ人の若者が佇んでいる。更に黒髪の騎士も脇に立っていた。
「ナルサス卿はおいでではござらぬようだな」
「あやつは子守をしている。エラムとアルフリードが喧嘩疲れでか寝入ってしまったのでな」
ダリューンが口を開いた。
「それはそれは」
要するにダリューンも戻らぬアルスラーンが気になってついてきたわけである。
「殿下は向こうにお連れするぞ、よいな、ギーヴ卿」
「私がお運びします!」
ジャスワントは進み出てアルスラーンを抱え上げた。細身の割に膂力はあるのらしい。幾分惜し気にそれを見やって座へ戻りかけながら、ダリューンは振り返った。
「ああ、ナルサスが今後のことについていくつか話があるそうだ、おぬしも来い」
諾して、ギーヴは立ち上がった。『仲間』と他者が見れば評するだろう者たちの背を眺めやりつつ、彼は小さく呟いた。
「嘘じゃ……ないさ」
アルスラーンに語ったことは決して偽りではなかった。彼が、ギーヴがアルスラーンに仕える理由の主なところはただの好奇心である。そのはず、だった。だが、それが今変化を迎えようとしていることに、ギーヴは否応なく気付かざるをえなかった。
<To be cont.>