オアシスの水のほとりで 〜act.2


 幼児は呆然としたまま、目の前で展開される光景を眺めやっていた。
「あ……」
 長じればおそらく「絶世の」付きの美男子となり得るであろう、整った顔立ちは、今、恐怖に引きつっている。坐り込んだ彼に理解できるのは、父が、母が、血を流していること。見知らぬ男が、両親をそのような目に遭わせていること。その現象だけであった。
 逃げなくては、という思考は生まれていなかった。ただ、反射的に身体が後ずさろうとする。このままここにいたら、自分の方に奇禍が訪れるのだということを、意識ではない感覚が捉えていた。
 しかし、男児は動くことができなかった。恐怖と強い衝撃、驚愕で全身が凍り付き、こわばって、自分の命令を遂行することは不可能であったのだ。
 見開かれた暗青色の瞳に、崩れる両親が映しだされる。
「父上! 母上っ!!」
 悲鳴に近い声に、彼の方を振り返り、短剣を構えて近付いてくる殺人者。子供の声はよく通る。子供など後からでも簡単に処分できると放置しておいたのだろうが、騒ぎを聞きつけて誰かにやってこられては、いささか都合の悪い状況であることに思い当たったのらしい。
 身動きできずにいる幼児に迫ってくる男が、突然歩みを止める。男児の母親が、地面に倒れたまま、息子を襲おうとする者の足にしがみつき、進ませまいとしたのだ。夫は既にこときれたのか、動かない。
「逃げなさい!」
 母親は叫んだ。彼女に足を掴まれた男が、あいている方の足で男児の母親を蹴りつけた。
 吐いた血が、地面に染みを作る。それでも、彼女は相手を離そうとせず、渾身の力で殺人者を止めた。何処にそのような力が残っていたのだろうか。子供を守ろうとするゆえか、あるいは命と引き換えの力だったのか……。
 後ろに引かれた男が体勢を崩し、膝をつく。短剣が落ちて転がった。
「早く……逃げ……」
「母上ーっ!」
 ようやく、男児の全身の束縛は解かれつつあった。彼は、自分の傍に転がっている短剣に視線を向けた。彼の目が鈍い光を放つ。

 あの男を……殺す。

 男児は柄を握ると、まだ感覚の完全には甦らない身体を叱咤して立ち上がった。
 子供の母親を振りほどいて姿勢を直そうとする男に、男児は刃の切っ先を向け、全力で突っ込んでゆく。そうだ、これは護身術の訓練ではないのだ――!
「………っっ!」 
 下方から、男の腹に短剣が突き刺さる。
 加害者の立場にたった男児の、赤みがかった頭髪が揺れた――。

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 パルス国の海の都、港町ギランはそこそこ平穏であった。王太子アルスラーン以下、彼に随う者たちが、この南方の大きな町に到着してから十日ほどになる。当初はいくつかのごたつきがあったが、今、ここでは王太子府がほぼ完全に機能するようになっていた。
 父王に追われた者として、アルスラーンは身を小さくしている――はずであったが、現実には彼は、ナルサスを教師としての勉強や政事に精励する傍ら、エラムやジャスワントを伴って、市街を見て回って楽しんでもいた。もっとも、身分上、あまり気軽に出歩けるものでないことは、アルスラーン自身、充分承知していたが。
「ジャスワント」
 シンドゥラ人の生真面目な若者は、名を呼ばれてそちらを見た。視線の先に、彼の仕える少年が微笑んで立っている。
 その日に処理するべき政務を全て片付け、用兵学の勉強も終えて、ナルサスからこの後の自由時間――護衛付きの外出――を許可されたアルスラーンは、執務室となっている部屋を出たところで、律儀に入り口近くに立って警護しているジャスワントの姿を認めたのだった。
「殿下、授業の方はお済みですか」
「うん。あとは特に予定もないし、ナルサスから、遊びに出てよいというお許しをもらった。……少し町を歩きたいのだが、ジャスワント、他に用がなければ一緒に来てくれないか」
「はい、勿論!」
 ジャスワントは嬉々として頷いた。
 本来ならばこのような任務にもっとも適しているのは、流浪の楽士と自称する赤紫色の髪と紺色の瞳を持つ青年、ギーヴなのであろうが、彼は今、ここギランで「世界一周」を目論んで妓館巡りに余念がない。朝帰りは無論のこと、たまにしか王太子府に寄りつかぬ有様である。
 実際、特に事もない日々が続いていることでもあるし、自由奔放な人生を旨とするギーヴがそうしたいのならばと、道程を共にした者たちは望むままにさせているのだった。
 しかし、時として過剰なほどの青年のはしゃぎぶりを、幾分アルスラーンは心配していた。いかにもギーヴらしいその様子が、逆に彼らしくなく思われたのである。日頃どんなにいい加減に見えようとも、彼は決して自分を失うことはない。それがここへ来て、何やらやけになっているようにすら、主君である少年は感じられてならなかったのだ。
 何か……あったのだろうか?
 ギーヴが戻ってきたら、一度訊ねてみよう。話したくないようなことであったなら、重ねて訊かなければいい。そう独語して、アルスラーンはジャスワントを随えて、一旦着替えるために居室へと向かった。

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 腹を刺されてうずくまった男の頚動脈を、抜いた短剣で切りつける。
 溢れ出す鮮血に伴って痙攣していた男が完全に動かなくなったところで、男児は握っていた短剣を取り落とした。
 そのままへなへなとしゃがみこむ。赤みがかった髪は汗で白い額に張りついていた。彼は今、生まれて初めて人間を殺したのだ……。
 極度の興奮と恐慌状態からがくがくと震え、荒い息は不規則に乱れているが、男児の暗青色の瞳に宿る光は、かろうじて正気を手放してはいなかった。
「は……は上……。父……上」
 無意識に呟いた言葉に、周囲への認識能力が再始動しはじめる。恐る恐る彼は辺りを見回した。
 血の海の中に転がっている、彼によって斃された男。四ガズほど向こうで既に息絶えているらしい父。そして――。
「母上!」
 這いずるように、男児は母親の元に寄った。その手を取ると、母親は薄く目を開いた。息子に受け継がれた同じ色の瞳は、もはや霞んでよく見えないようだった。しかし彼女は息子にそっと微笑みかけた。
「……無事……ですね?」
「はい……はい、母上」
「早く……ここから、逃げ……るのです――」
「ですが!」
 このままここにいてはいけない。新たな災厄が降りかかってくることになる。それを男児は知っていた。だが、死に瀕している親を見捨てて逃げ出すことができる筈もなかった。
 母親は苦しそうに目を閉じ、首をかすかに振った。淡い褐色の豊かな頭髪がゆるく広がった。
「行きな……さい、グルド」
「で……もっ」
 グルドと呼ばれた男児は母親の手を強く握り締めた。母親の喘ぐような呼吸が加速度的に乱れてゆく。
「逃げて……。わたし……の――」
 ごぼりと吐きだされる血。声が途切れる。わずかに握り返していた手の力が不意に抜けた。
 それの意味するところを男児は知っていた。彼は息をのみ、それでも弱々しく呟いた。
「母上――?」
 次に訪れるものは、頭の芯が圧力とともに冷えきる感覚。
「や……だ……」
 凍りついた空間を引き裂いたのは悲鳴だった。
「いやだぁ――っっ!!」

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 アルスラーンは苦笑を含んだ表情で斜め後ろを見上げた。
「ジャスワント……それでは、私が護衛されているというのがはた目から見え見えだよ」
 王太子一行がギランにいるということは知っていても、あるいはいくらか顔を見知っていても、このように町を往来するアルスラーンたちの正体に気付く民衆は皆無に近い。
 更に、ここギランには、さまざまな国の人間が入り乱れている。異国との交易で栄え、富んでいるこの町では、異国人は珍しい存在ではない。ギランの人口の三分の一は異国人である。そのような状況が成り立っている以上、シンドゥラ人であるジャスワントも、この町を歩いている限りはさして人目は引かないし、増して、上等の生地が使われているとはいえ庶民風の仕立ての衣服を着けた、パルス人のアルスラーンが、目立つわけでもないのだ。
 そうでありながら、なぜ今彼らが人々の注目を浴びているかといえば、ひとえにジャスワントの態度であった。
 決して離れることなくアルスラーンの一歩後ろに付き従い、周囲に鋭い視線を投げかけ続け、何かにつけ敬う様子を見せる彼は、どう見ても貴人の護衛者、従者だったのだ。
「とりあえず少し離れていてくれないか? 私を見失わない程度でいいから。そうでないと別の騒動が起こってしまいそうだ」
「……はい。承知いたしました」
 ジャスワントは軽く頭を下げた。不本意ではあったが、主君の言は正しい。
 近くの露店に並べられている品物を眺めるそぶりを装って、アルスラーンとの距離を五ガズ程度あける。それからジャスワントは琥珀色の目を光らせて、雑踏の中の少年の後をついていった。

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「いいのか、ナルサス」
 パルス随一の武将と名高い、鍛えられた体躯の所有者は、軍師である旧友をねめつけた。
「いいのか、とは?」
「判っているだろう! 殿下にもしものことでもあったら」
「落ちつけ、ダリューン」
 自分が処理するべき文書に目をやりながら、ナルサスは微苦笑する。
「ひとりで出てゆかれたわけではない。それに、王太子府に籠もっていることが必ずしもアルスラーン殿下の為によいとは思われぬからな。……殿下はよく頑張っておいでだ。ご褒美をさしあげただけのこと」
 ダリューンはひとつ息をついた。
「そうだな……ジャスワントがついているか」
「少なくとも、ダリューン、おぬしが警護するよりは目立たん。場所をとらない分はな」
 両者とも同じようにアルスラーンの後ろにべったりと張りついているにせよ、いかにも歴戦の戦士らしいダリューンの外見よりは、細身の豹を思わせる身軽な若者の方がいくらかましであろう。
「……失礼します」
 その時、ナルサスの侍童であるエラムが盆をかかげて入室してきた。
「喉が渇いていらっしゃるのではないかと思いまして」
 先程までアルスラーンと一緒にナルサスの授業を受けていたエラムは、教師に向かって笑みを見せた。
「や、これはありがたい」
「ダリューンさまもどうぞ」
 オレンジの香りのする茶を二人分注いで卓に置く。
 三人は期せずして、ふと、窓の外に目をやった。
 よく晴れている。にわか休憩所となった室内に夏の風が吹き込んできた。

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 近付く人の気配を男児は感じた。
 逃げなくては……!
 三人分の遺体の転がるその場に永遠にいることはできなかった。しかもうち一人分は自分の手によるもの、となれば尚更である。両親のことが気に掛かったが、己を守ることが先決だった。
 力の入らない足でどうにか立ち上がり、母親の傍を離れる。
「ごめんなさい……」
 呟いてから、男児は駆け出した。何処へ行くといったあてがあったわけではない。とにかく身を隠すことが優先事項であった。
 幾度も足がもつれ、転びそうになる。膝をついてしまえば動けない――思考によらずそれを男児は悟っていた。呼吸の苦しさとそれ以外の胸郭の痛みに耐えながら、彼は懸命に走った。
「……あ……」
 人気の全くない丘の外れまで来た時、初めて彼、グルドユーヴァは自分が泣いていることに気付いた――。

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「どうしたの?」
 そう問われて、ギーヴは不審そうな表情をつくった。
 ある妓館の一室で、一夜を過ごした後、結局寝入ってしまい、先ほど彼は目を覚ましたばかりだった。寝台の隣には、淡褐色の髪をした若い女が坐っている。
「どうした、とは?」
「だって、さっき泣いてたわよ」
 女が身を起こしたギーヴにしなだれかかる。
「怖い夢でもみたのかしら?」
 揶揄するような女の言葉に、ギーヴは自分の頬に反射的に手をやった。乾いてはおらぬそれに、舌打ちしそうな表情を彼は構成した。
 決してあってはならないことだった。そのような弱さはとうの昔に捨てたはずであった。子供の頃に。
 ――あの人のせいだ。
 ギーヴは優しげな顔立ちの少年を想起した。晴れ渡った夜空の色の瞳でまっすぐに自分を見つめる「主君」。ギランへ向かう途中の野営で少年が投げかけた疑問が、ギーヴの心の片隅に引っかかっていた。

 何故私についてきてくれる? しがらみなど持たず、自由であるはずなのに。

 そしてこの女の髪の色も原因、か――。他人には判別不可能なほどわずかな自嘲の嗤いを口元にたゆたわせ、それからギーヴは表情を一転させた。
「そう、とても怖い夢だったな」
 意味ありげにギーヴは女を見やる。
「なにしろ、今おれの隣にいる美女が、おれにつれなくなってしまう夢だったものでね。胸も張り裂けんばかりの悲しみに涙が溢れて止まらなかったのさ」
 女は笑いだした。
「それ、一体今まで何回言ったの?」
 数えきれないほど、とはギーヴは洩らさず、
「おれは心にもないことは言わぬよ」
 充分心にもないことを彼は口にした。女はまんざらでもなさそうである。
「つれなくなんてなるものですか。こんな魅力的な人、初めてなのに」
 それこそ何回客にささやいたか知れぬ台詞だが、あながちお世辞ばかりでもない響きがそこには含まれていた。
 じゃれるような会話をしばらく繰り返したのち、ギーヴは女の長い髪の毛を手に取り、それにうやうやしく口づけた。
「名残惜しいが、そろそろ帰らなくては」
「もう? ……いいわ、でもまたいらしてね」
「勿論。佳い女の所には幾度でも足を運ぶさ。芸術を嗜む者として、美しいものには惹かれるゆえ」
 身仕度をととのえながら、どこまでも調子のいいことをギーヴはほざいた。
 情事に及ぶ前につくってやった、粗製濫造の見本のような四行詩を、別れの挨拶代わりにもう一度、歌うような口調で復唱する。これだけのことでも別れ際相手に与える心証は随分と違うものらしい。
「……待ってるわ」
 ギエナという、どこやらの国の言語で『翼』という意味の名を持つ女に、うっとりとした顔で見送らせることに成功し、ギーヴは剣を佩いて部屋を出た。

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 ジャスワントは愕然としていた。
 つかず離れず、ずっとアルスラーンの後に付き随っていた彼は、幾度も周囲に目を凝らした。
 人通りの多い中、こともあろうにアルスラーンの姿を見失ってしまったのだ。軒を連ねる店の主の一人に話しかけられ、ほんのわずか、少年から視線を外した隙のことだった。
「殿下っ?」
 見知ったその姿は、視界の中にはない。ジャスワントは跳ねるように駆け出していた。
 他人に衝突しかねないのを厭わず、辺りを見回しながら彼は走った。もし、アルスラーンに何かあってからでは遅いのだ。彼にぶつかられた者の罵声も、ジャスワントの耳には入っていなかった。
 あの方をお衛りできずして、一体、自分は何の為の護衛役か!
 焦りと純粋な忠誠心がジャスワントを突き動かしていた。
 彼は声を大きくして叫んだ。
「一体何処においでです!?」

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 耳に飛び込んでくる、一種懐かしくさえ思えるギランの喧噪が、アルスラーンの感覚をかつて下町で暮らしていた頃に呼び戻していた。
 今、彼はただの一五歳足らずの少年だった。男の子というものは探険や冒険といったものが概して好きである。それが町の中であろうとどこかの無人島であろうと、あるいは家のがらくた部屋であろうと、興味の尻尾はいつも子供の目の前に見え隠れしているのだ。
 ――こんなの、久しぶりだ。
 幼少期には、近所の自由民の子供たちと一緒に、町じゅうを探険して回ったものであった。露店に掛かっている布の陰、隣の通りに抜けるための一番の近道……そういったもの全てが遊びの対象になった。同じ町が、子供たちの目には毎日違う世界に見えていたのだ……。
「あれ……?」
 大通りからいくつもつながっている横道の一本に紛れ込んでしばらくしたところで、アルスラーンは違和感に気付き、歩を止めた。
「はぐれた……かな」
 後ろを振り返る。先刻まで感じていた、実直な若者の気配が消えていたのだ。
「やはりいないか」
 どうやら、人混みの中で別れてしまったらしい。アルスラーンは引き返すことにした。単独行動の危険性を考えたのである。現在の自分がもはや平凡な下町の少年ではないことに、彼は思い至らざるをえなかった。
 あの日々は帰らぬ過去だった。どれほど過去が甘い蜜で誘いをかけてきても、現在の立場と責任を忘れることはアルスラーンにはできなかったのだ。
 戻ろうとして身を返しかけたアルスラーンを、突然荒々しい声が叩いた。
「王太子だな!」
「え?」
 振り向く間もおかず、横道の、更に路地裏といった様子の場所から伸びた手が、アルスラーンの口元を押さえる。
「……っ!」
 アルスラーンは身をよじった。抱え込もうとする腕をかいくぐり、対峙する。
 立っていたのは一人の男だった。三〇歳過ぎだろうか。陽に灼けた浅黒い肌をしていた。アルスラーンを狙っているのは言うまでもない。
「いかにも、パルス国王太子、アルスラーンだ。……おぬし、私の命が望みか」
 アルスラーンが男を睨みつけるようにして名乗ると、男の手に刃が光った。
「民の苦しみも知らず、のうのうと安寧をむさぼろうとする孺子め!」
 自身に何ら帰依することなく、『王族である』というその一点に於いて憎悪を抱かれる、その不条理には、アルスラーンはいい加減慣れてきていた。
 ギランの民衆は基本的に王太子一行に対して好意的であるはずだが、個人それぞれに違った感懐というものはあるのだ。どの世界にも少数派は存在して然るべきである。
 だからといって、現実問題として「お好きなように」とは言っていられないアルスラーンであった。
 まともに渡り合うつもりは少年にはなかった。腰に短剣を帯びただけの軽装であるから、どうしても刃に頼らねばならなくなるまで、とにかく逃げるつもりだった。
 アルスラーンは身を翻した。人の多い場所の方が、紛れやすい分安全である。
「待て!」
 男は追いすがってきた。逃げ切れない。握られた短剣が鈍く光を反射する。
 ――ザシュッ!!
 切りつけられたアルスラーンの血が、石畳に散った――。

<To be cont.>

<<<act.1         act.INTERMISSION>>>


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