オアシスの水のほとりで 〜act.INTERMISSION
あとほんのわずかで往来へと出る寸前――。
右の二の腕をかすめた刃の軌跡の残像を、アルスラーンの意識は捉えていた。
ぎりぎりのところで、それでも身体をひねってかわそうとしたためか、深手はまぬがれたようだった。痛みより先に、したたり落ちる血の赤が少年の視界を占める。
だが、戸惑っている余裕は与えられなかった。彼を狙う男の描く妄想の未来が、髪の毛一本の更に半分ほど先延べになっただけだ。半瞬の躊躇もなく全力を以て、アルスラーンは逃げ続けた。
相手には相手の主義主張があろうが、アルスラーンにも彼なりの言い分が存在する。ここで己の人生を中断してしまうわけにはいかないのだ。積極的な自殺願望がない以上、彼には自ら選びつつある自他への責任に於いて生を全うする義務があった。*-----*-----*-----*-----*-----*-----*
「殿下とはぐれた……?」
ダリューンは、地べたに頭をこすりつけんばかりにしながら身を縮めるジャスワントに、唖然と呆然の中間点に位置する声を向けた。
「どういうことだ」
ナルサスに容赦のない説明を求められ、シンドゥラ人の若者は平身低頭して事情を語る。一旦姿を見失ったこと、回るうち、途中まで追うことはできたものの、そこでぷっつり足取りが跡絶えてしまったこと……。何事かが起こったのは疑いない。失態を隠してギランの街を一人で捜しきろうとする愚考は、ジャスワントは犯さなかった。*-----*-----*-----*-----*-----*-----*
ギーヴは、唾棄すべき汚物にでも向けるような目で男を一瞥した。アルスラーンを襲った男は奇妙な興奮状態で、ひきつけのような笑い声をたてた。武器を失い、壁際に追いつめられた彼が、開き直ってぶつかってくるだけの隙さえも、赤紫色の頭髪を持つ青年は見せてやろうとはしない。
抜き放った剣を標的に定めたまま、ギーヴは一歩足を踏み出した。
「さて、頸と胴体をすっぱり切り離してやってもよいが……それでは殿下のお目を汚すことになる。おぬしもいっそ一思いに殺されるほうが己の正義に殉じて本望だろうて。おぬしごときを喜ばせてやる義理はおれにはないからな」
同情のかけらもない声音で、青年は剣を一閃させた。
「ギーヴ!」
「ご安心を。気絶させただけでございますから」
少年の叫びに、未来の宮廷楽士は剣を柄に戻してこともなげに告げる。どうせ引きずっていって締め上げねばならないのだ。血のにじむ腕をぎゅっと押さえ、地面に膝をついていたアルスラーンは、緊張の糸がほどけたのか、ぺたりと坐り込んでしまった。
「ともかくありがとう、ギーヴ」
「どういたしまして」
彼特有の気障な仕草でギーヴは礼を取る。安心したような吐息をこぼして謝辞を述べる主君の方へ、青年は近づいた。
ふと――。
ギーヴは立ち止まり、一旦おさめた剣をすらりと抜いた。鈍くひかる刃と、無防備に彼を見上げる少年の白い喉頸とを交互に見やる。一度、二度……。
「殿下、もし……」
抑揚を消した低い呟きを彼は発した。不思議そうに、微かに首をかしげて、アルスラーンは目をしばたたく。青年は、唇を引き結んで再び歩を進めた。
「……ギーヴ?」
ギーヴは少年の前で足を止め、抜き身の刃をまっすぐに向けた。その紺色の瞳には、何の感情も浮かんではいなかった。
……そして、彼は腕を伸ばしてアルスラーンの喉笛に刃の切っ先を突きつけた。
「もし、おれが――」
<To be cont.>
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